本とゲームとサウナとうんち

ライターが書くブログです。本とゲームとサウナとときどきうんちが出てくるブログです。

創作 お題「ききただす」 タイトル:屋上

ききただす

【聞(き)糺す】

疑問点などを当事者に直接聞いて確かめる。

新明解 国語辞典 第七版 P333

 

***

受験勉強の緊張感に慣れはじめ、夏ということもありクラスには少しだけ生ぬるい風が漂っていた。といっても、僕はそんな風を感じて何かしらの行動を起こせるようなグループに属しておらず、ましてやそんな行動を一緒に起こす友達さえいなかった。高校に入学してから一度も四季というものを意識したことがなく、気づけば高三の夏になっていた。その夏も去年と一昨年と変わらない夏になるはずだった。

***

「今夜、屋上で花火しない?」

昼休みの教室は騒がしく、聞き耳を立てないと誰が何の話しをしているのか分からない。そもそも、普段はクラスの誰が何を話しているかなんて、気にならないはずなのに、その会話だけははっきりと聞こえていた。校舎の屋上で花火をするなんて馬鹿げたことを、と思ったが、想像すると予想以上に楽しそうで、僕はその会話に必死に耳を傾けた。僕もしたい。屋上で花火がしたい。誰かとしたいと言うよりも、ただ屋上で花火をしてみたかった。もしかしたら花火よりも屋上に魅力を感じていたのかもしれない。耳には「屋上」という言葉がしっかりと残っていた。いつも地面ばかり見ていた。空に近い場所である屋上に行ってみたい、なんて心の中でつぶやいた自分が恥ずかしかった。話し声のする方向に視線を向けると、数人の男女が輪になっていた。中には飛び上がって喜んでいる女子もいる。

「いいねいいね」

「けど、どうやって屋上行くの?」

必死に集団の方向に耳を集中させて、屋上に行く方法を聞き出そうとした。そこでチャイムがなった。我に返った僕は夜に校舎の屋上に登るという子供じみた発想に自分自身であきれていた。そして、そんなことにあきれてしまう自分に腹が立っていた。

いつ屋上で花火をするのか、日時だけでも聞き出そうと教室では出来るだけその集団のそばにいるようにした。八月十五日、お盆の午後八時に花火をするという情報を聞き出した。僕も一緒に行っていいかな、なんていうつもりはない。彼らがどんな方法で屋上に行くのかさえ分かればいいのだ。花火が終わったあとにそれを真似て屋上に行けばいい。

***

正門をまたいだすぐのところにある小さな時計台は七時をさしていた。時計台を両側から挟むように西校舎と東校舎が建っている。ついさっきまで生徒が入っていた校舎はまだどこかぬくもりのようなものを残していた。三階建ての校舎の向こうに見える空にはまだ少し太陽の光が残っているようだった。星はまばらで、見頃にはまだ時間が必要だろう。

自転車が一台もない駐輪場はこんなにも広いのか。駐輪場と校舎を覗くことができる焼却炉の陰にしゃがんで彼らが来るのを待った。夏休みで使われていないはずの焼却炉からは煤の臭いがした。

八時を過ぎた頃、集団が集まってきた。悪びれた様子は少しもなく、ときに奇声を発していた。その奇声はいかにも夏らしく、僕のそばを通り過ぎた後もその勢いは衰えず、校舎の壁を何度も反射して僕のところに届いた。こだまする奇声にまぎれて僕も思いっきり意味の分からない言葉を叫びたい衝動に駆られたがぐっとこらえた。

集団は駐輪場にある倉庫からはしごを取り出すと、校舎の二階のベランダにかけた。二階のベランダには手を伸ばしてやっと届く位置に小さなはしごが付いており、集団は一人ずつ屋上の暗闇へと消えていった。登り方さえ分かれば、集団に興味はない。僕は再び焼却炉の陰に戻り煤の臭いをかぎながら彼らが帰るのを待った。空を見上げると、星がはっきりと見えた。僕は空という言葉を頭の中にもう一度思い浮かべた。夜の空だから、夜空のはずだが、頭に浮かんだのは夜空ではなく空だった。屋上から集団の奇声と花火のはぜる音が聞こえた。僕のいる場所から屋上までの距離はそれほど離れていないのに、とても遠くに聞こえた。

***

九時頃に音が止み、集団が駐輪場に戻ってきた。酒が入っているのか、興奮した様子で自転車に乗り帰って行く。集団の声が完全に聞こえなくなるまで待ち、倉庫に向かった。さびた扉をゆっくりと開けるとそこにあるはずのはしごがなかった。そういえば、集団は帰るときにはしごを持っていなかったような気がする。校舎に向かうと、はしごはベランダにかかったままだった。明日先生に見つかって屋上で花火をしたこと、酒を飲んだことがばれたらどうするつもりなのだろうか。あきれると同時にそんな考え方ができる彼らをうらやましく思った。そしてうらやましいと思ってしまう自分に腹が立った。

***

屋上には花火の残骸とたばこの吸い殻、酎ハイの空き缶が転がっていた。まだ少し火薬の匂いが残っている。ところどころ花火で焦げ黒くなっている地面は、コンクリートではなく緑色のゴムのような素材でできていた。深呼吸をしながらゆっくりと見回す。真っ暗な校舎。ところどころにある電灯。校庭の方に顔を向けたが、何も見えなかった。軽い。生徒がいない、動いているものが何もない空っぽの校舎は今にも浮いてしまいそうだ。僕は校舎が浮いても大丈夫なように仰向けになり空を見上げた。視界に入るのは空と星だけ。人工物は何もない。目の焦点が合わなくなってくる。まるで空を飛んでいるような浮遊感がある。もしかして校舎が本当に浮いてしまったんじゃないだろうか。はっとして勢いよく体を起こしたときだった。どこかからバイブ音が鳴った。屋上の隅に小さく緑色に光りながら揺れているものがある。すぐに携帯電話だと分かった。おそらく先ほどの集団の誰かが忘れて帰ったのだろう。ところどころハートや星のシールでデコられた携帯にはどこか控えめな雰囲気があった。集団の中にいた女子の顔を思い浮かべてみる。きつめの化粧と香水をした女子ばかりの中に少し地味な女子がいた。名前は田中。あまりの普通すぎる名字だから覚えていた。携帯はまだ揺れている。携帯をなくした田中が集団の誰かに頼んで電話をかけているのだろう。出たほうがいいだろうか。出てしまうと僕がここにいることがばれてしまう。こんなに鳴らしていると言うことはもうじき田中がここに戻ってきてしまうかもしれない。僕は携帯をその場に置き、戻ろうとした。そのときだった。背後で「あ」という声が聞こえた。振り返ると、屋上の縁から突き出た田中の顔がこっちを見ていた。

「誰?」

こんな状況で「誰?」と強気に言える田中は見た目は控えめでも性格はそうではないのかもしれない。まるで映画の刑事が犯人を逃がすまいとするように、顔はこちらに向けたままゆっくりとはしごを登ってきた。

「なんだ、園田か」

驚いた。田中が僕の名前、正確には名字を知っていたとは。
「何してんの?」

まさか「何してんの?」と聞かれるなんて想定していなかった僕は言葉に詰まってしまった。

「いや、別に、星、見ようと思って」

意味不明な返しにも関わらず田中は顔色ひとつ変えず、空を見上げた。

「あ、星だ」

つられて僕も見上げた。

「園田って、なんかロマンチストな雰囲気あるもんね」

「え?」

そんなことは今まで一度も言われたことはなかった。これは褒め言葉なのだろうか。急に鼓動が早くなる。

「いっつも外ばっかり見てるじゃん」

たしかにそうだが、それだけでロマンチストとは。

「まあ、何考えてるかわかんないからちょっと怖いけど」

田中はふふふと笑う。

「それ、私のケータイ」

田中は僕の手を指さした。てっきり元の場所に戻したとばかり思っていた携帯はまだ僕の手の中にあった。「ちょっとなんであんたが持ってんの?」「触らないで」「気持ち悪いんですけど」「中見たでしょ?サイテー」ほかにも田中の口から発せられるであろう罵詈雑言とはいかないまでもそれと同様の台詞が僕の頭の中で駆け巡った。

「ありがとう」

「あ、いや、別に何もしてないし」

まさか、お礼を言われるとは思っていなかった僕は、僕だけが分かる一瞬の間、体が固まった。気づくとすぐ目の前に田中がいた。シャンプーのいい香りとほのかにチューハイらしき匂いがする。田中から差し出された手に、指に触れないように携帯を渡した。

「園田ってケータイ持ってないの?」

「持ってないね」

高校入学時に親に携帯を買ってあげようかと言われたが、僕には必要ない気がして断った。本当は少し欲しかったけど、持っていてもむなしいだけのような気がしたのだ。

「じゃあ、お礼にこれあげる」

田中はバッグの中からジュースの感を取り出した。よく見るとレモンチューハイだった。

「ありがとう」

僕が受け取るのと同時に田中は身を翻してはしごに走り寄った。

「じゃあね!ロマンチスト!」

田中は手を振ると、僕が手を振り返すのを見ずにはしごを降りていった。カンカンカン。タタタタタ。ガシャン。シャーシャーシャー。はしごを降りる足音。走る足音。自転車のスタンドを起こす音。自転車が走り去る音。田中の音すべてが耳の奥に響いた。田中が振り返ってもう一度手を振ってくれるかもしれないと思い屋上から見える正門に目をやると、すでに通り過ぎた後だったのか、LEDに照らされた時計台があるだけだった。

***

なんだ、ジュースじゃないか。レモン味と書かれたチューハイはレモンの味ではなく何味かわからないジュースの味がした。田中からもらったチューハイを飲む。田中のどこかの一部を飲んでいるような奇妙な感覚があった。そういえば、あの携帯は本当に田中のだった。見た瞬間に田中のだと分かった自分がなんとなく誇らしかった。今まで感じたことのない興奮が下から僕を押し上げる。というより、何かに興奮するなんてこれが初めてだった。ぬるくなったアルミ缶のぬくもりがよけいにそうさせた。下半身に熱い何かを感じた僕はその場に体育座りをして二口目を口に含んだ。

***

カンカンカン。はしごを登る音がする。田中がまた忘れ物でもしたのだろうか。それとも。何を期待したのか分からない。けれど、その期待を口にするのはあまりにも馬鹿馬鹿しく、あり得なさすぎて少し息を漏らして笑いながらはしごにかけよった。顔を出したのは知らないおじさんだった。

「わっ!」

いきなり現れた僕に驚きはしごから落ちそうになったおじさんはまるで漫画のように両腕をぐるぐると回しバランスを保つとガシャンとはしごにつかまった。たった二口のチューハイで酔っていたのかもしれない。大人が必死に腕を回す仕草が面白く、思わず笑ってしまった。

「こんなところで何やってるんだ!」

はしごを登りながらそう怒鳴ったおじさんは、よく見えると学校の警備員の制服を着ていた。警備員特有の警察のような帽子をかぶっていなかったから分からなかったのだ。普通のおじさんだったらどれだけよかっただろう。制服を見てこれがとてもやばい状況であることを認識した。警備員は屋上を見回した。花火の後、たばこの吸い殻、チューハイの空き缶、そして僕の手に握られたチューハイ。

「名前は?何年何組だ」

怒鳴るように聞かれたからではなく、この状況を僕有利にもっていくことなんて不可能だろうなと一瞬で悟り、何も言うことができなかった。夜に学校に忍び込み、はしごを使って屋上に登り、酒を飲みたばこを吸いながら花火をした生徒なのだ。

***

テレビで見る刑事ドラマの取り調べ室を少し広くしたぐらいの警備員室は西校舎の正門から一番遠いところにあった。
「酒とたばこは黙っといてやる」

その優しさは僕には無意味だった。それなら今ここで起こっているすべてのことを黙っていてもらいたかった。花火もたばこも酒も僕ではない。僕が持っていたチューハイはもらったものだ。そんな説明をして信じてもらえるだろうか。信じてもらうには相当の言葉と、警備員との関係性を築くための相当な時間が必要だろう。この先僕はどうなってしまうのか考えても仕方がない。なぜか手に持ったままだったチューハイを煽った。部屋の隅に小さなモニターが見えた。白黒の映像が映し出されている。すぐに正門だと分かった。監視カメラだ。この学校には監視カメラがあったのだ。一筋の光が見えた。監視カメラなら、ビニール袋を持った集団の映像が残っているはずだ。彼らが花火と酒を持ち込んだ証拠になる。

「あの、ちょっといいですか」

「なんだ」

何かの書類に書き込んでいる警備員は顔も上げずに言った。
「花火も酒も、僕じゃないんです」

「今さら何言ってんだ」

「監視カメラ見てもらえれば分かると思うんですけど、僕と同じクラスの集団が大きなビニール袋を持って学校に入ることろが映ってると思うんです」

警備員は顔を上げると黙ってモニターの前に行き、ビデオデッキのような黒い箱を操作し始めた。迷慣れた手つきでボタンを押しつまみを回した。機械には疎い年齢かと思っていたが、この警備員は見た目よりもずっと若いのかもしれない。何の変化もない正門の映像にノイズが混ざる。右上に表示された時間だけが動き巻き戻っていく。

「あ」

正門を一台の自転車が通り過ぎ校舎へと入っていった。警備員はボタンを操作し、自転車が通り過ぎる瞬間で止め、ゆっくりと振り向いた。

「これ、おまえだろ」

モニターに近づいて見ると、確かに僕だった。

「僕が映ってるってことは、あの集団も映ってるはずです」

警備員は黙ってまたつまみを回した。どんなに巻き戻っても集団は映ってなかった。

「仮にその集団がいたとして、校舎に入ってきたのはおまえの後か?それとも前か?」

「あ」

集団が校舎に入ってきたのは僕の後だ。つまり、監視カメラに映っているとしたら、巻き戻した場合、彼らが先にモニターに現れるはずだ。いや、もう一つ、出入り口がある。
「裏門に切り替えってできますか」

「裏門にはカメラはついてない。正門だけだ」

警備員は操作をやめてため息をついた。

「酒とたばこは黙っといてやるから」

同じ事を言ってまた書類に何かを書き始めた。奴らは正門にカメラがあることを知っていたのか。それとも偶然か。おそらく知っていたのだろう。なぜかはめられた気がした。見つかったときは言い訳をするつもりはなかったが、監視カメラという小さな出口を見つけたことでこの状況をなんとかして変えたいと思うようになっていた。

「何時頃から屋上にいたんだ」

「九時ぐらいです」

僕は嘘をついた。けれど、警備員は何も言わずに書類に書き込んでいる。おかしい。集団はかなり大声を出して騒いでいた。花火の音もしていた。地上にいた僕にはっきりと聞こえていたのだ。そもそも九時にはもう花火は終わっている。もし警備員が巡回していたら八時頃から鳴っていた音や声が聞こえたはず。そして九時ぐらいから僕が屋上にいたという嘘に気づくはずだ。もしかするとこの警備員は仕事をさぼっていたのかもしれない。

「なんでそんなこと聞くんですか。巡回中に屋上から花火の音聞こえませんでした?」

警備員の手が一瞬止まり、また動きだした。動揺を読み取ろうと警備員の後ろ姿をじっと見つめた。帽子をかぶっていない。彼の頭には警備員ならかぶっているはずの帽子がなく、寝癖のように髪がはねていた。

「寝てました?」

また手が止まった。

「寝てねーよ」

「じゃあなんで花火の音が聞こえなかったんですか?」

「おまえさ、自分の立場わかってる? 酒とたばこ、担任に報告するからな」

もうどうでもよくなっていた。屋上に登ったことがばれようが、酒を飲んだことがばれようが、集団がやったことを自分のせいにされようが、どうでもよくなっていた。

「なんで、屋上に登ろうと思ったんですか?」

警備員はゆっくりと息を吸い、一気に吐き出した。お手本のような溜息だ。

「屋上に人がいるって電話があったんだよ」

「どこにですか」

「ここにだよ。高校の電話が鳴って、屋上に人がいますって」

「誰が電話してきたんですか」

「知らん。女の人の声で、それだけ言うと電話が切れた」

「花火の音がうるさいっていう苦情ではなく?」

「屋上に人がいますってだけだった。ちょっと気味が悪かったけど、行ってみたらおまえがいた」

屋上に人がいることを知っている女。田中しかいない。なんのために?そんなことをして何になる?手を振ってはしごとを降りる田中がどんな顔をしていたのか思い出せない。笑っていた?どんな笑顔?学校に電話をしてすべて俺がやったことにしたのか。電話なんかする必要があったのか。そのまま帰っても集団が屋上で酒を飲みながら花火をしたことはばれないはず。それなのにわざわざ電話をした。俺をはめるために。何の意味があるんだ。何の意味もないのかもしれない。

警備員室のドアが開いた。担任と両親の三人が立っていた。屋上から星を見たかったなんて言えなかった。両親の説教をただ黙って聞き、なぜこんなことをしたのかという担任の問い詰めには「すいませんでした」とだけ答えた。自分がさぼっていたことがばれるのがいやだったのか、僕の味方に回った警備員は酒のことは担任にも両親にも伏せ、当時の状況を説明した。

「まあ、彼も反省しているようなので、もういいんじゃないですか。そういう年頃ですからね」

何を納得したのか、大人四人はうんうんとうなづいていた。
***

僕は何の処分もなく、翌日いつも通り登校した。田中は昨日のことなんてなかったかのように集団の中で笑っていた。集団の連中も誰一人僕のことを見ない。田中は僕のことを誰にも話していないのだろうか。なぜ話さないのだろうか。じっとにらむように見つめたが僕の視線は田中に届く前に教室の空気に薄められ霧のように散った。僕の中で答えは出ていた。電話をしたのは田中だ。なぜそんなことをしたのか理由を聞きたかった。聞いてどうなるわけでもない。ただ聞きたかった。学校内で田中と二人きりになるのは難しい。僕は思いきって田中の下駄箱に電話番号を書いた紙を入れようかと思ったが、電話に親が出たらめんどうなことになりそうだ。

***

携帯が欲しいというと、両親は何も言わずに買ってくれた。もともと会話が多いほうではなかった。あの一件以来、さらに家族の会話は少なくなっていた。

***

「この間の屋上のことで聞きたいことがある。電話ください。携帯買いました。園田」

携帯番号を書き添えた小さな紙をポケットに忍ばせて一週間が過ぎた。下駄箱に入れても机に入れてもほかの誰かに見られてしまう可能がある。田中に紙を直接渡すチャンスは一日一回しかなかった。朝の駐輪場だ。いつもより一時間早い七時に登校し駐輪場で田中が来るのを待った。誰もいない駐輪場にいると二週間ほど前のことを思い出す。夜と違い朝の校舎はとても無機質に見える。あの事件のことなんてもうとっくに忘れている。駐輪場のそばにある倉庫に行くと扉に南京錠で鍵がかけられていた。七時半頃からちらほらと生徒が登校し始め、徐々に学校全体が動きだす。僕はまだ止まったままだ。七時五十分だった。大勢の生徒の中から田中を見つけた。田中はいつも一人で登校する。周辺視野でほかの生徒を避けながら田中だけを見て少しづつ近づく。

「田中」

呼吸が止まっていたことに気づいたのは田中を呼んだときだった。

「なに?」

いつか呼び止められることを予想していたかのような速さで振り返るとその場に立ち止まり表情を変えずに僕を見た。歩きながら渡そうと思っていた僕にとって田中が立ち止まったのは予想外だった。川に埋まった大きな石をするりとよけて流れる川のように大勢の生徒が僕と田中をちらちら見ながらすり抜けて下駄箱へと向かう。呼吸がまた止まった。紙を渡すだけでいい。何も言う必要はない。そう自分に言い聞かせ肺に溜まったままの空気をゆっくりとはきながら折りたたんだ紙を田中の前に差し出した。通り過ぎる生徒たちの視線が僕の手元に刺さる。そういう手紙ではないことを周りにも田中にも示すために僕は眉間にしわを寄せ、まだはき切っていない空気を強引に吸い込み胸を張った。

「は?」

田中は紙を受け取るとうっとうしそうに雑な手つきで開いた。まるで漫画のワンシーンのように「ぷっ」と吹き出した。

「警備員に見つかんなかった?」

「なんで電話なんかしたんだ?」

「次の日普通に学校に来てたよね?」

「正門に監視カメラがあるって知ったのか?」

「あの状況なら停学になってもおかしくないと思うけど」

「俺をはめて何がおもしろいんだよ」

「ねえねえ、なんで停学くらわなかったの?」

田中はわざと大きな声で聞くと、手で口と鼻を覆い笑いをこらえ「ぐぐぐ」と下品な音を立てた。

「まあいいや、で、なんだっけ?」

田中はもう一度紙を見た。

「ここに電話すればいいの?」

僕は田中から紙を取り上げた。

「いや、もういい」

田中はとくに何も考えていなかった。警備員に連絡をすれば僕が窮地に陥る。ただ、それだけだ。その後のことには興味がない。というより田中の頭の中である程度予想できていたのだ。ただ、なぜ僕が停学にならなかったのか、それだけが予想外だった。なぜ僕を停学にしたかったのか。別に「僕」は関係ない。ただそこに、屋上にたまたま僕がいたからだ。田中の目に僕は映っていなかった。

「あ」

いつの間にか下駄箱に歩き始めていた田中が振り返った。

「田中って呼び捨てにするの、やめてね」

体がぐらっと揺れた。誰かが僕の肩に思いっきりぶつかった。

 

咳人の日記


せき。「咳嗽(ソウ)・労咳・謦(ケイ)咳」
新明解 国語辞典 第七版 P221

 
これは咳のような声で会話する「咳人(せきじん)」による日記である。

ゴホング:オホホング

ゴホッ ゴホゴホ ゴホ カッカッ ンン
ウン ウウン ゴホゴホゴホッ 
コホンコホン オホンオホン コホコホ
ゴホホホ ンウウン アー カー
ンカ ウプ ウンウ ウンボ コホコホコホ
アーッパ ウーウー コココ カ カ コ ホ
ホンホン ウグ ングング ググン コホ  
ウン ウウン ゴホゴホゴホッ ンガンゴ
ゴゴゴ コホンコホン ホンホン
コンコン セキ セ キ セキン ホセキ
コセキ オオセキ セキオオ ホンセキ
ゴホゴホゴホ セキン ンセキ

こちらは日本語訳である。

タイトル:親子丼

二年一組が学級閉鎖に追い込まれた次の日、二組の僕の隣に座るまこと君がインフルエンザにかかったと先生に聞かされた。

「まこと君、インフルエンザだって」

「すげー!」

「かっけー!」

「一週間、学校に来れないらしいよ」

「まじで!」

眼鏡をかけてみたい、松葉杖をついてみたい、そう憧れるのと同じようにインフルエンザという未知の病気にかかった友達にクラス中が沸き立った。その二日後に熱が出た。僕はクラスの中でどのように賞賛されているのだろうか。できればまこと君より先に、クラスで一番にかかりたかった。

その日の夜、熱が三十九度まで上がった。これから自分の体がどうなってしまうのか。初めての経験で興奮していた僕は体の辛さよりもわくわくが勝り、翌朝にはとんでもないことになっているのではと、なかなか寝付けなかった。

翌朝、親父に渡された体温計で熱を測ると平熱まで下がっていた。関節の痛みもなく体は軽かった。一週間も休むのは症状ではなく、ウイルスが体からいなくなるのに必要な日数だと知り、僕のインフルエンザへの憧れは一気に冷めていった。

そして、僕は親父が家にいることに少し戸惑っていた。

小学二年生当時、お袋は専業主婦で親父はいつも朝六時には家を出ていた。そんな親父がなぜか家にいる。お袋が用意したお粥を食べながら、新聞を読む親父をちらちらと見ていた。なぜお袋が家にいなくて、親父がいるのか。たったそれだけのことが聞けず、お粥を食べ終えるとまた布団に入った。

「お昼ご飯できたぞ」

親父の声でまどろみから目が覚めた。

テーブルには親子丼があった。レトルトかと思ったが、不揃いの大きさの鶏肉に、少し固まった卵を見て、レトルトでもお袋が作ったものでもないことが分かった。口に入れると不揃いな鶏肉が口の中でころころと動き、卵も堅いところと柔らかいところがあり、独特のおいしさがあった。

「親子丼は、お父さんの得意料理なんだ」

少し恥ずかしそうに言う親父を見て、そんな親父を見るのが初めてだった僕は、戸惑って何も言えずただうなずくだけだった。

あれから三十年が経った。僕は空港のフードコートで親子丼を食べている。親子丼という名前の意味を知ったのはいつだろう。鶏肉が親で卵が子ども、だから親子丼。親父の親子丼を食べた小学二年生の頃は、ただ親子丼という食べ物だと思っていた。名前の意味まで考えたことはなかった。

親父の危篤を聞き、実家に帰るためにすぐに空港に向かった。キャンセル待ちの連絡を待つ間、フードコートに寄った僕は無意識に親子丼を注文していた。

実家に着いたら親父に親子丼の作り方を教えてもらおう。

創作 お題「かさいるい」タイトル:砂の味の花

 

かさいるい
1【花菜類】花の部分を食べる野菜。例、カリフラワー・ブロッコリーフキノトウなど。
2【果菜類】実の部分を食べる野菜。例、ナス・キュウリ・カボチャ・トマト・シシトウ・オクラなど。
→根菜類・葉菜類
新明解 国語辞典 第七版 P257

 
「桜っておいしいよね」

 公園のトイレの行列を見て私と彼女は歩いて五分ほどのデパートのトイレを目指していた。

「桜餅? ああ、私はそんなに好きじゃないかな」

「ちがうちがう、桜の花びらのこと」

 花見ってこんなにつまらなかっただろうか。大学時代にはそれなりにわいわいやっていた気がする。私が勤めている職場は花見はおろか忘年会や新年会もなかった。それはそれで楽ではあったが、どこかでこういう場所を欲していたのかもしれない。大学時代の友達からの誘いに予定も確認せずに「行く」と返事をしていた。

 ブルーシートの上では男と女の駆け引きが繰り広げられていた。駆け引きといっても学生時代のような陳腐で雑なものではなく、常識というルールにのっとった競技のようなものだった。男性と話している女性には話しかけない。話しかけるときはまず名乗る。女性は男性に話しかけない。買い出しに行くときは男性二人と女性二人の組み合わせで行く。プラコップは一人一つで自分の名前を書く。女性は一人でトイレに行かない。今のところ私が確認できたルールはこの六つだった。

 男性がマジメに一つ目のルールを厳守しているせいか、グループでわいわい話すことはなく、常に初対面の男性とマンツーマンで会話することになる。お互い社会人なのでそれなりに会話は続くが盛り上がることはなかった。私は男性を見るでもなく桜を見るでもなくゆらゆらと視線を動かしプラカップに注がれたビールを飲み続けていた。

 トイレに行こうと立ち上がったときには六つ目のルールを思い出せないほどには酔っていた。公園のトイレに向かおうとすると背後から声をかけられた。

「ちょっと歩くけど向こうのトイレ行ったほうがいいよ」

 振り返ると小柄な女性が公園の先に見えるデパートを指さしていた。思わず「誰?」と聞きそうになったが、すぐに花見に参加している女性であることを思い出した。その女性の周りは一際盛り上がっていた。そういえば彼女は複数の男性と同時に会話していた。彼女だけ特例なのだろうか。そこで私は六つ目のルールを思い出した。トイレは女性二人で行く。このルールはしっかりと守らなければいけないのかもしれない。知らない男性と二人で話すより知らない女性と二人で話す方がまだ気が楽だ。

「桜っておいしいよね」

唐突だとは思ったが花見という席もあり違和感を覚えることなく間を埋めるための会話だと思い付き合うことにした。
「桜餅? ああ、私はそんなに好きじゃないかな」

「ちがうちがう、桜の花びらのこと」

 そう言うと彼女は地面に落ちている無数の桜の花びらから一枚拾い口に入れた。私の反応を気にする様子もなく少し歩くとまた花びらを拾い口に運んだ。一つ一つ口に運ぶその姿を見て、小学生の頃、学校の花壇に咲いたサルビアを思い出していた。蜜の入った花びらを一本抜き取って口に運び吸う。甘さは一瞬で消え花びらの苦さが口に残る。ある程度集めてからまとめて吸う友達もいたが、私は一つ一つ吸うのが好きだった。さっきまで密で膨らんでいた赤い花びらは一瞬でしぼむ。振り向くと花壇に沿って空っぽになった花びらがばらばらの方向を見て落ちていた。

 どんな味がするんだろう。桜の花びらは思ったよりも小さく人差し指と親指の間にほとんど隠れている。目を閉じると掴んでいるのかどうかもわからないくらい薄い。口に入れると花びらは上あごや舌に張り付いて離れず、なかなか飲み込むことができない。すぐに溶けてなくなるものだと思っていた私は少し焦り思わず口の中に指を入れ花びらを取り出した。渇いて色が落ちかけていた花びらは私の唾液で生気を取り戻したように鮮やかなピンク色になっていた。

「ねえ、どんな味?」

 花びらを拾う彼女の後頭部に聞いた。彼女は振り向くことなく首を少しだけ傾けた。

「うーん、なんかの野菜」

「桜って野菜?」

 彼女は私の声が聞こえていないのか、黙々と花びらを拾い口に運ぶ。私はもう一度桜の花びらを口に含み今度は飴をなめるようにゆっくりと舌の上で味わった。サルビアのような蜜の甘さやも花びらの苦さもなく、ただ砂の味だけがした。

「SDGs」と「人類の進歩と調和」

SDGsという言葉を最近よく聞く。「エスディジーズ」と読み「Sustainable Development Goals」の略で「持続可能な開発目標」と訳す。2015年に国連で採択された。

SDGsの大まかな内容について、外務省のホームページにあるPDFにはこう書かれてある。

1.貧困や飢餓、教育など未だに解決を見ない社会面の開発アジェンダ

2.エネルギーや資源の有効活用、働き方の改善、不平等の解消などすべての国が持続可能な形で経済成長を目指す経済アジェンダ

3.地球環境や気候変動など地球規模で取り組むべき環境アジェンダ

簡単に言うと、今目の前にある問題を解決しつつ、経済も発展させようという「いいとこ取り」の施策だ。

何のリスクもなく問題を解決できるならそれが一番いい。しかし、今の世界にある問題を、SDGsの活動で解決するには無理がある。

そもそも「持続可能な開発」という言葉に矛盾がある。これまでの歴史を見れば開発には破壊がつきものだ。開発は破壊だ。持続可能とは正反対の概念だ。環境を守りつつ、経済を発展させる。世界中の格差をなくしつつ、経済を発展させる。矛盾でしかない。

何かに似ている。そうだ、1970年に開催された大阪万博のスローガンだ。

「人類の進歩と調和」

人類が進歩しつつ、地球環境と調和する。「持続可能な開発」と考え方が似ている。1970年、これに異を唱えたのが岡本太郎だ。彼は「人類の進歩と調和なんてあり得ない」と、アンチテーゼとして太陽の塔を建てた。

環境や格差などの問題を解決することは大事だ。しかし、そこに必ずも「開発」はなくてもいいのではないだろうか。開発は経済だ。経済はリスクを悪と考える。つまりリスクのあることはしない。俗な言い方をすると、儲からないことはしない。これが資本主義だ。本当に問題を解決したいのなら、持続可能な世界を実現したいのであれば、一度何かを止める、何かを戻す、という考え方も必要だ。

一部の人間が富を支配しながら貧困を解決するのは不可能だ。今のままエネルギーを消費しながら経済までも発展させるのは不可能だ。「人類の進歩と調和」も「SDGs」も資本主義とは相性が悪い。いざとなったら、人は経済をとる。開発を優先する。

東日本大震災で都心では計画停電が実施された。エネルギーのありがたさや原発の怖さを知った。人類の進歩と調和が難しいことを知った。世界的に格差が広がり久しい。コロナの影響でさらに格差が広がりつつある。SDGsがどんな役割を果たすのか。企業は早速ビジネスに取り入れている。自社を進化させるために、売り上げを上げるために。いつだったか、元アイドルが「SDGs、何かやってますか?」と聞かれ「できるだけ長く着れる服を買うようにしています」と答えていた。これからSDGs関連の商品やサービスが増えるのだろうか。その売り上げがどれほど問題解決に寄与するのだろうか。

進化しなければならない、発展しなければならないという考え方は人を窮屈にさせる。昨日と同じ今日でもいい。昨日より悪い今日があってもいい。立ち止まり、過去を振り返る時間が必要だ。

しかし、資本主義はそれを許さない。人は企業は経済活動しなければ生きていけないことになっている。皆自分がかわいい。自分が大切だ。「開発目標」だけでなく、どれほど「持続可能」に意識を割いて生きていけるか。難しいだろう。

創作 お題「奇策」:タイトル「パンティ」



きさく【奇策】
だれも思いつかないような、奇抜な計略。奇計。「―縦横」
三省堂 新明解 国語辞典 第七版 P338

 



自宅のベランダに女性用の下着が落ちていた。いわゆるパンティというものだ。独身彼女なしの僕の住む家のベランダに黒いパンティが落ちていたのだ。一目見てパンティだと解ったわけではない。干していた靴下が落ちたのだと思い手に取ると、予想以上に軽く、目の前で広げて初めてパンティだと気づいた。黒をベースに、前方の大事な部分と後方の肛門部分以外はレース生地で、ところどころ赤い花柄の刺繍がある。こんなパンティは動画の中でしか見たことがない。

梅雨が明け、久々に晴れた日を有効に使おうと、その日は平日にもかかわらず早起きをして、溜まった洗濯を片付けてから仕事に向かった。近所を見回すとどこの家のベランダにも多くの洗濯物が干されてある。こんなパンティがもし目に入っていたとしたらきっと記憶に残っているはずだ。
僕の住む二階建てのアパートは、一階に二部屋しかなく、二階には大家さんが住んでいる。隣の部屋はもう一年以上入居者がいない。靴下のままベランダに出て近所を見回す。こんな時間にまで洗濯物を干しているベランダは一つもなかった。パンティを持ったままいつまでも外にいるわけにもいかず、僕はパンティを小さく丸めてポケットにしまうと、洗濯物を取り入れた。

上京した十年前から使っているちゃぶ台の上にコンビニ弁当とパンティが並んでいる。腹が減ってはいたが、持ち主のわからないパンティを前に落ち着いて親子丼を食べられるほど僕は大人ではなかった。

右手は自然とパンティに向かった。手にとって再度広げてみる。くしゅっとまるまったそれは思いの外よく延びた。何度か左右に広げ意味もなく強度を確かめる。

「意外としっかりしてるんだなあ」

そう言葉にすることで、パンティの性的な部分ではなく機能性に注目しているんだと自分に言い聞かせた。

初めて見たのはお袋のパンティだ。形はまったく僕のブリーフと変わらず、「白は僕の、ベージュはお母さんの」と色だけで区別していた。パンティという概念はそのときにはなかった。初めてことにおよんだ女性のパンティはどうだっただろうか。下着をゆっくりと確かめる余裕なんてなかった。

あれ以来僕はパンティを見ていないのではないか。今目の前にあるパンティが人生で三人目の女性のパンティだ。

スマホの時計を見ると午後十時を過ぎていた。

ひとつ深呼吸をすると、パンティを視界に入れないためにちゃぶ台の下に置き、親子丼のフィルムをはがした。

目が覚めると視線の先、手の届く位置にパンティがあった。朝目覚めて真っ先に見るものがパンティという人生初めての経験に一気に目が覚めた。昨夜のことを思いだし、おもむろにパンティに手を伸ばす。横になっているせいか昨日よりもパンティが近い。ほんのりといい香りがする。洗剤の香りだろうか。左手でパンティを握りながら、右手をゆっくりと下半身へと持って行く。

(だめだ)

してはいけない。昨夜も思い描いていたが、親子丼のおかげでなんとか踏みとどまったのだ。誰も見ていない。誰のパンティかも分からない。ここで僕がしても誰にも迷惑はかからない。けれど、パンティを穢すことになってしまう。これまで見てきた様々な動画の女優さんの顔が浮かぶ。みんなこんなパンティを履いていた。起きるにはまだ早かったが、布団から出ると小さなタオルでパンティを包み、テレビ台の上に置いた。

梅雨が明け、一週間ほど経っていた。いつもより強く鳴く蝉に導かれるように僕は空を見上げた。向かいのマンションの二階のベランダに揺れる真っ白いタオル。その隙間から縦に長いものがタオルの揺れに合わせてちらちらと見えた。遠目でもレース生地に赤い花柄の刺繍が見える。ブラジャーだ。タオルで隠すように干されていたブラジャーは、僕の立ち位置からだけなのか、そこしかないという隙間からはっきりと見えた。僕のパンティとセットのブラジャーだ。いや、「僕の」ではない。僕の部屋のベランダとの位置関係から考えると向かいのベランダから飛んできたと考えるのが当然だろう。驚きよりも、持ち主が分かったことの安心感が強かった。本当はセットで使いたいはずなのに、彼女はブラジャーだけ使い、パンティは別の色または柄を使っているのだ。黒地に花柄の刺繍が施されたブラジャーに合うパンティは一つしかない。

(返さなければ)

あのパンティで「しなかった」自分を褒めた。もししていたら、もう返せない。

どう、返せばいいのだろうか。

「パンティ、落ちてましたよ」

なんて言えるわけがない。しかも、彼女のパンティが風で飛ばされ僕の部屋のベランダに奇跡的に落ちたのはもう一週間も前の話だ。今更「落ちてましたよ」と返しにいったのでは怪しまれるに決まっている。こっそりポストに入れるのはどうだろう。マンションの入り口に並んだポスト。名前は書かれていないが部屋番号でどのポストが「彼女」のものかは分かるはずだ。丁寧に畳んで清潔感のある袋か箱に入れポストに投函しておこう。「落ちていました」とか「拾いました」とか何か手紙を入れたほうがいいだろうか。男の文字だと気持ち悪い。女友達に書いてもらおうか。そんなことを考えていると、マンションの入り口から一人の女性が出てきた。ぼーっと突っ立ている僕に一瞬驚き、驚かされたことに明らかにいらついた表情を一瞬見せたが、すぐに柔らかい笑顔になり「おはようございます」と小さな声で挨拶をしてくれた。髪はロング。派手な顔だが、丁寧な化粧でどこか清楚さもある。年齢は僕と同じぐらい、あるいは少し年上の三十代前半だろうか。

(この人だ)

直感だった。証拠も何もない。僕にはこの女性があのパンティとブラジャーを付けている空間がはっきりと頭に浮かんだ。

(返さなければ)

彼女は視線を、同じ場所に突っ立って何も言葉を発しない僕から彼女の背後斜め上に向けるという不自然な動きの後、僕には視線を戻さずに会釈をし四センチぐらいはあるヒールの音を響かせながら細い道を大通りへと向かった。

彼女が向けた視線の先には防犯カメラがあった。ちょうどマンションの入り口とポストを捉える位置にある。彼女のポストにパンティを返したとしても、それが僕の仕業だと分かり、運が悪ければ下着泥棒で逮捕される可能性もある。
(いったいどうすれば僕はパンティを彼女に返せるんだ)

苦悩する台詞が頭に浮かんだが、これはただのフリで「返せないのだから、自分のものにして自由に使ってもしょうがないよね」というずっと奥にしまっていた本心が顔を出す。パンティを見つけてから約一週間、ずっと我慢できた自分をここで否定するわけにはいかない。男性が女性にパンティを渡しても違和感のないシーンを思い浮かべてみる。
「あ」

プレゼントだ。プレゼントという方法なら女性に堂々とパンティを渡すことができる。プレゼントと称してあのパンティを彼女に渡せば僕の目的は達成されるのだ。

「実は君に渡したいものがあるんだ。僕たちが出会ったときのこと覚えてる?あのときからずっと渡そうと思ってて。なかなか渡すタイミングがなくて、一周年記念ならちょうどいいかなと思って。何か分かる?はい、これ。開けてみて」

本当のスカウトをください

10年ほど前、二十代後半の頃、三回目の転職だったと思う、「スカウトが届きました」という件名のメールがとある転職サイトから届いた。転職コンサルタント会社のエージェントからのメールだった。僕のコピーライターの経験に注目したという。

「こんな僕にスカウトが届くなんて!僕の能力はそれくらい高いんだ!」

少し誇らしげな気持ちになり、興奮気味に面接に向かった。
メールに書かれてあった企業を紹介されるのかと思ったらその求人は昨日締め切ってしまったらしく、ほかの企業を紹介された。少し面食らったがスカウトをもらった嬉しさの余韻もあり、勢いでその企業を受けることにした。

一次面接と二次面接を難なくクリアし、三次の社長面接に進んだ。面接も終盤にさしかかり、じゃあ一緒に頑張りましょう、といった雰囲気になったときに社長が言った。

「そういえば、うちは完全週休二日制じゃないけど大丈夫?」

詳しく聞くと隔週で週休二日制の会社だった。これまでの面接でも、エージェントからもそんな話しはまったく聞いてなかった僕は「少し考えさせてください」と面接を終え、その後お断りの連絡を入れた。

それから数週間後、別の転職会社から再びスカウトのメールが届いた。当時僕はコピーライターだったが、過去には3DCGデザイナーをしていた。その経験に注目したらしい。そのとき、再びデザイナーに戻ろうか迷っていた時期だったので、これはいいタイミングだと思い面接に向かうと「その企業は求人を締め切りました」の言葉。そして「コピーライターの経験を活かしてこちらの企業はいかがですか」と広告制作会社を薦められた。断った。

再びスカウトメールが届いた。二度もそういうことがあったので、僕はもうスカウトという言葉に心が踊らなくなっていた。そのメールには飲食店の店長候補と書かれてあった。いったい僕のどの経歴を見てこんなメールを送ってきたのだろうか。僕は自分の経歴を見直した。大学時代に飲食店で半年ほどバイトをしていた。これか。これを見て「スカウト」か。

僕はここでやっと悟った。転職業界のスカウトは僕が思っていたスカウトとはまったく違うことに。

スカウトといえばプロ野球だ。能力の高い選手を各球団が取り合い、交渉権を獲得した監督がガッツポーズする。スカウトを受けられるのは限られた選手のみ。

そのスカウトを僕が受けるなんてことはないのだ。二十代後半のそんな特殊な経験もしていない人間にオファーなんて出すわけがない。心踊らせていた自分がとても恥ずかしくなった。まだまだ自尊心が強く、何者かになれる、何かができる、そう思っていた時だった。そんなときに「スカウト」なんて書かれたメールを見て心躍らせてしまうぐらいは許して欲しい。それ以来、オファーメールはすべて無視した。

あれから10年。勢いで会社を辞めてしまった僕は、再び転職サイトに登録することになった。

そして案の定、スカウトメールが届いた。10年前と何も変わっていない。むしろひどくなっているような気がする。
ゲーム会社での勤務経験に注目したというエージェントからシステムエンジニアのスカウトが来た。僕がゲーム会社にいたのは15年ほど前だ。しかもシステムエンジニアの経験は一切ない。とりあえずゲーム会社に勤務経験のある人に自動でメールを送っているのだろう。

それからも続々スカウトが届く。

ゲームプログラマー(経験なし)。
WEBデザイナー(経験なし)。
住宅会社営業(経験なし)。
DTPオペレータ(経験なし)。
軽車両ドライバー(経験なし)。

エージェントが登録したワードに少しでもひっかかれっばその人にメールが行く仕組みになっているのだろう。僕の経歴のどこにひっかかったのかわからないが。

自分に合った仕事を探すのは自分でも難しい。それを赤の他人が見つけられるなんてことはない。けれど、スカウトメールシステムが10年前と変わっていないということは転職業界ではこれが最適な方法ということなのかもしれない。

たしかに、もうどうにもならない、仕事なんて選んでいられない状況になったときに、このスカウトメールは役に立つ。そして死んだような顔をして働くのだろう。

10年後の自分にはどんなスカウトメールが届くのだろうか。

したいことはリスクがあっても続けたほうがいい

若いときの苦労は買ってでもしろ、という言葉がある。簡単に言うと、若いときの苦労は将来役に立つという意味だ。若いときの苦労はたしかに大人になってから役に立つかもしれないが、苦労ばかりして好きなことをせずにいると大人になった時に取り返しのつかないことになってしまうこともある。

だから僕はこう言いたい。

若いときにしたいと思ったことは、たとえリスクがあっても続けろ、と。

僕は今年39歳になる。大学を卒業して就いた仕事は3DCGアニメーターだった。中学時代に観たピクサーのアニメーションに憧れこの職業に就いた。

ゲーム会社でアニメーターをしていが、会社の雰囲気や上司との関係でなんとなく合わないなと思い大学時代に興味のあったコピーライターに転職した。

職場は今で言うブラック企業で、2年半ほどで辞めた。26か27歳ぐらいの時だった。もうコピーライターは辞めよう、もう一度アニメーターに戻ろうと考えた。離れてみてわかることもある。まだ30歳にもなっていない。苦労はするだろうが再度アニメーターになることもできるはずだ。

アニメーターになるか、コピーライターを続けるか迷った挙げ句、僕はコピーライターを続けることを選んだ。やりたかったのはアニメーターだった。転職のしやすさや給料を考えると(やりたくない)コピーライターの選択に間違いはなかったはずだ。

その後コピーライターを経てWEBディレクター的なことをして、今はライター的なことをしている。好きなこと、やりたいことを捨てて生きやすさを選んだ。

あのときから12年ほど経つが僕は今まで仕事が楽しいと思ったことは一度もない。仕事とはそんなものだと思ってきた。あれから何度も転職を繰り返した。「ここで仕事がしたい」と思って入社した会社は1社もない。ただ生活のためだけにしたくない仕事を続け、給料を上げるためだけに転職を繰り返してきた。

今年3年半勤めた会社(そこではライターをしていた)をやめて転職した。新しい会社でもライターをやった。そして、7ヶ月で辞めてしまった。したくもないことを続けることはもう無理だった。

たとえやりたくない仕事でも続けていけばなんとかなるだろう、そもそも続けないと生きていけないわけだからどこかであきらめがつき、慣れて、どうでもよくなるだろうと思っていた。どうにもならなかった。やっぱりしたくないものはしたくない。だからといって今からまたアニメーターに戻るのは難しい。以前戻ろうと思ったときとは状況が違う。あのとき、たとえリスクがあったとしてもアニメーターに戻るべきだったのだ。

給料が安くても、いやな奴がいても、自分がシンプルに好きだと思える仕事は続けた方がいい。会社を変えるのはかまわない。

金のためだけに続ける仕事、なんとなくできちゃう仕事を続けていても将来はない。

40歳近くになったときに残るのはからっぽの自分だけだ。