本とゲームとサウナとうんち

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仕事も小説も人であるけれど ーとにかくうちに帰ります(津村記久子)を読んでー

 朝起きて顔を洗って朝ご飯のお茶漬けを食べて天気予報を確認して歯を磨いて家を出て電車に乗って職場に向かう。職場に着いたらパソコンを開いて文字を書き定時になったのを確認したら駅までの帰り道あるいはプラットホームで会社の人と鉢合わせすることがないようにその三十分後に会社を出る。そして満員電車に揺られて帰宅する。こんな生活を今の家に引っ越してから一年ほど続けている。朝八時に家を出て夜帰宅するのは二十時だ。一日の半分を仕事のために費やしている。一日の半分を仕事に費やしているにもかかわらず、帰宅して今日何があったかと思い出すと頭の中には何も残っていない。ただしんどかったなあという絶望と呼ぶには過ぎるなんともいえない切なさと未来のなさだけが残っている。

 なぜいきなりこんなことを考えたのかというと、津村記久子の「とにかくうちに帰ります」が職場を舞台にした人間模様を描いた小説だからだ。人間模様と言っても社内恋愛とかどろどろの不倫とか出世のための政治とかそういうものではなく、職場での何気ない出来事や何気ないコミュニケーションが描かれている。

 読み終わってみて真っ先に考えたのが自分の平日の一日だったのだ。この小説のように自分の一日を文章にすることができるだろうか、自分の一日から何か物語りを生み出すことができるだろうか、そう考えてみたのだが、結果、何も生み出すことができなかった。しかし、津村氏はこのように小説を生み出している。ひとつひとつの話は取るに足らないものだが、取るに足らない一日を我々は過ごしており、そこにしか自分たちの「生」はない。取るに足らないことを描けるということは一日を「きちんと生きている」ことなのだ。ただぼんやりとではなく、人を見て、人との会話を大切にして、つまり人との関わりを大切にするということ。

 一日を振り返って何も生み出せない僕は職場での人との関わりをないがしろにしているのだろうか。そうだ、その通りだ。職場では僕は仕事以外の会話をほとんどしない。会社には月に一度部署の垣根を越えてランチをするシャッフルランチというイベントがあるが、それにも参加していない。なぜなら、人と話すのが億劫であることもあるが、会社の人たちと話をしていてまったく楽しさを感じないからでもある。営業の話すことは二言目にはお金の話だ。ライターである僕としては記事の中身をどうるすかとか、クライアントの要望は何かとか、そういうことを話したいのだが、なるはやで始めたいとか、今月中に出稿しないと予算がやばいとか、つまり仕事のベクトルが違う。そういう人たちと話をする、そういう人たちに関心を向けるのはなかなか難しい。


 たしか津村氏は仕事を持つ作家、つまり兼業作家だったはずだ。しかしこの小説は僕のような感覚で人を見るのではなく、きちんとひとりの個人として職場の人を見ている。それは熱心に観察しているように思えるが、実はとても冷静だ。自分の仕事を、自分の周りで働く同僚を離れたところから冷静な目で見つめている。


 この小説のもう一つの特徴は誰もかっこつけていないということだ。肩書きや仕事の内容が詳しく説明されているわけではないが、登場人物はみなかっこつけることなく、自然体で自分自身の毎日を生きている。表題作である「とにかくうちに帰ります」はゲリラ豪雨が降る中を三人の大人と一人の子供が自宅まで(厳密に言うと駅まで)歩く話だ。登場する大人はいずれも会社員であるが、仕事や役職などは関係ない。ただ、家に帰りたいという思いを抱いた人たちだ。


 印象に残った文章がある。


”家に帰って食べたいものを、マッチ売りの少女のように数える。玄関についてレインコートを脱ぎ、化粧を落として床に座ったら、自分はしみじみ泣くだろう。そこにいることに、傘をささなくていいことに、屋根があることに。明日が休みだというのはきっと二の次だ。風呂に入ってスエットに着替えて買ったものを食べてすぐに歯を磨いて、今日は眠ろう。それ以外は何もなくていい。”(本書P181)


 仕事をしていても社会人でも大人でもこれでいい。かっこつける必要はない。僕が勤める会社の人間はどこかかっこつけて仕事をしている。知らないことを素直に知らないと言えず強がって、それって実はすごくかっこ悪い。


 これを読み終わって思ったのはやっぱり小説って人だよな、ということだ。ずいぶんと抽象的だが、現実の世界では職場での人と為りはあまり信用できない。職場外での言動がその人そのものなのだ。この小説に出てくる人たちは、一部そうではない人もいるが、たいていの人たちはかっこつけることなく仕事だからとかプライベートだからとかそういうつまらないことを考えることなく過ごしている。そんな当たり前と思えることが現実の世界ではなかなかできない。だからこの小説は魅力的なのだ。 

 一日の半分を会社のために使っている。それはつまり、自分ではない。職場の外にこそ自分がある。逆を言えば会社で嫌なやつも会社の外では良いやつかもしれないということになる。仕事をしているときと、していないときで人は皆自分を使い分けている。


 人間って器用だと思う。と同時にそれってしんどいよな、とも思う。