本とゲームとサウナとうんち

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無料の価値とは

 映画や漫画を見たり読んだりするときにハズレを引くということがなくなった。事前にネットで情報が得られ、口コミなどですでにそれを体験した人たちの感想を見ることができるようになったからだ。面白そうなら見ればいい、面白くなさそうであればやめればいい。時間とお金をそれにつぎ込む価値があるかどうか、人は意外とシビアに判断している。 小説はとくにその判断がシビアになる。かける時間が映画や漫画よりもはるかに長くなるからだ。自分の人生の10時間をこの本に費やして大丈夫か、ちょっと大げさかもしれないが、僕は書店で本を選ぶときに時間も考えながら選んでいる。

 ハズレという観点では小説も映画や漫画と同じで事前にいくらでも情報を得ることができる。ちょっと立ち読みをすれば中身を知ることができる。これは映画や漫画にはない良さだろう。つまり小説の方がハズレを引く可能性は低いといえる。たまには立ち読みをして良さそうだなと思って買って読み進めていくうちに、面白くなくなってしまうことはある。そんな面白くない小説はこれまでの読書経験で数えるほどしかないが、久しぶりにおもしろくない小説に出会った。それが『   』というタイトルの小説だ。なぜタイトルが『   』なのか、それはまだタイトルが付いていない小説だからだ。

 講談社が進めている「本づくりプロジェクト」という企画がある。これは小説を無料で公開しそれを読んでもらい、扉絵を募集したりタイトルを募集したりする読者参加型の企画だ。この第二弾が、とある小説を読んでタイトルをつける、というものだったのだ。

 ここに一つの落とし穴があった。「無料」だ。「タダ」だ。タダで小説が読めるのだ。タダなら読んでみようと、何も考えずにその著者の過去の作品も調べずに読み始めたのだ。 著者行成薫のこの作品は、連作短編集だ。とある遊園地の閉園をきっかけに、それにゆかりのある人々に起こる出来事を描いた作品だ。語り手は中学生から老人までと幅広い。こう書くとなんだかおもしろそうな小説に思えるが、実際はそうではなかった。

 本書の第1話を要約するとこうだ。とある中学生の男女が閉園の日にダブルデートで遊園地に行く。ジェットコースターが苦手な一組の男女がいる。まだ付き合ってはいない。一緒にジェットコースターに乗る。物語の最後に女子が海外へ転校することを知った男子が女子に告白するもフラれてしまう。

 これを読んだときに、これはまずいなと感じだ。この話の何がおもしろいのだろうか。どこかで聞いたことがあるような、ベタなラブソングにあるような話だ。その後の話もどこかベタでよくあるよね、と思ってしまうような話ばかりなのだ。

 離婚した男性が、妻に親権のある息子と遊園地にやってくる。ゴーカートで勝負をして負けたら息子の願いを何でも聞くという約束をする男性。結果は負けてしまい、息子の願いを聞く。すると息子はお母さんともう一度話をしてみてほしいという願いを男性に告げる。おそらくこの話を読んだほとんどの人が予想していた結末だ。男性が昔プロのレーサーを目指していて、それが原因で離婚してしまい、といった過去もあるのだが、それにしても「物語のお手軽感」は否めない。

 この時点で読むのをやめてもよかったのだがとにかく最後まで読み切った。といっても後半は2,3行飛ばしながら読んだのだが。

 これほどに面白くないと思ってしまった理由は無料で読めるという点にもあると思う。自分でお金を出して買った本であればたとえ面白くないと気づいたとしても自分の感性で買ったのだから、自分がお金を出して買ったのだから、どこかに面白いところがあるはずだ、と読み方も変わったかもしれない。この小説は面白くないかもしれないと気づいたときに「無料で読ませる小説だし」という感覚が僕の中のどこかで顔を出した。それが顔を出してからはとことんこの小説が面白くないと感じるようになってしまった。無料で読むことで小説に対する作家に対するリスペクトのようなものが一切なくなってしまった。だから僕はこの文章を書こうと思ったのだ。自分の時間をこの文章を書く時間に当てることが僕の作家に対するリスペクトだ。たとえそれが作品を批判する内容であったとしても。 無料で小説を公開して成功した例もある。「ルビンの壺が割れた」という小説だ。これも今回と同様に「この本にキャッチコピーをつけてください」という読者参加型の企画でネット上で無料で公開された。僕も読んでそこそこ面白いなあという印象を抱いた。ツイッター上ではこの本を大絶賛するツイートがあふれているが、そこまで言うほどか?というのが僕の印象だ。しかし、この作品はその後製本され本屋に並び大ヒットとなった。作品の力もあっただろうが、このネット上で話題も作品の売り上げを後押しすることになったと思う。

 面白いか面白くないかは個人の基準によるのでこの小説を面白いと思う人は当然いるだろう。しかし、小説をどう読むかでその感覚が変わる。僕は「出来事」を語る小説が苦手だ。今回で言うと「遊園地の閉園」という出来事が作品の中心にある。もう少し人について語って欲しかったし、語るなら誰もが思いつくようなベタな展開はやめて欲しかった。「ルビンの壺が割れた」は人にフォーカスしているとは思う。しかし、読者を驚かそうとする作者の意図が見えてしまうので興冷めてしまった。

 様々な娯楽が世の中にあふれる現在で、読書に時間を割いてもらうためには「簡単に読める話」「わかりやすい話」「わかりやすい共感」が求められるのかもしれない。読み終わった後に何か発見があるのではなく、「そうだよね!この感覚みんな持ってるよね!こういう経験みんなするよね!」といった共感が求められているのだろう。そこで僕は今回読んだ小説にこうタイトルをつけた。

『よくある話』


 簡単に共感できるよくある話の小説は今後読まないように気をつけよう。


 本が売れない時代に出版社は様々な手段を使って本を売ろうとする。しかし、その行き着く先が無料だとむなしい。読み手だけでなく作り手さえも「無料」だからいいか、という感覚でいるとすれば、小説に関わらず、今無料で公開されているコンテンツに未来はない。


 そこで思うのは「新しい売り方」をするときに、売る側に作品に対するリスペクトがあるだろうか、ということだ。読者が楽しめるものを提供するのは当たり前だと思うが、とりあえず無料で提供する、ネットで話題になることを第一に考えるのではなく、作品の質を高めるのも出版社の役割だ。今回読んだ作品はただ面白くないというだけでなく、物語の構成やつながりの部分において違和感のある部分が多かった。 


  面白くないと感じた小説を、面白くないとはっきりと表明するのにはリスクがある。何事も批判することにはリスクが伴う。おまえはどうなんだ?そもそもおまえの読み方が間違ってるぞ、なんて言われて言い返せなかったときのことを思うとそう簡単に何かを批判することはできない。しかし、面白くないときに黙るのではなく、なぜ面白くないのかをきちんと説明して批判するのであればそれはそれで意味のあることだと思う。無料でそのコンテンツを享受しているからこそ、批評、批判は必要だと思う。


 無料で公開されて、しかも無視される、これはコンテンツにとって地獄だ。