本とゲームとサウナとうんち

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まだ遅くはない ーサラバ(西加奈子)を読んでー

 久しぶりに長編を読んだ。西加奈子のサラバだ。本屋で一行目を立ち読みしすぐにレジに向かった。


「僕はこの世界に左足から登場した」

 

 こんな一行目の小説が面白くないわけがないという期待と、どうやったらこんな一行目が書けるんだよという嫉妬が混じりながら複雑な気持ちで読み始めた。


 本作は主人公垰歩が生まれた瞬間から三七歳になるまでの「生き方」あるいは「生き方を見つけるまで」を描いている。厳密には垰家全員、姉の貴子、父の憲太郎、そして母の奈緒子の四人とその周辺の人々の生き方を描いている。と簡単に書いたがこれほどの長編だ、その内容を「生き方を描いている」なんてひとことで言えるような小説ではない。自分のこれまでの人生をひとことで表せないのと同じように。


 物語は歩の一人称で進んでいく。歩の視線を通した世界、そしてその世界を歩の思考がどのようにとらえているのかが年代ごとに描かれ、それと同時に歩を通して垰家のこと、とりわけ貴子のことが描かれる。


 歩は子供の頃から美少年で周りの人たちから愛されて育つ。一方で姉の貴子はご神木というあだ名をつけられ学校ではいじめられ母からも疎まれて育つ。こう聞くと誰もが歩の生き方を羨むだろう。しかしそこに描かれるのはいつも誰かと自分を比べて周りが自分をどう見ているのかを気にする歩の姿だ。うまくいかない自分を誰かのせいにする歩の姿だ。まるで歩が悪者のように聞こえるがしかし、誰しもが歩と同じではないだろうか。毎日の生活の中で誰かと自分を比べずにただ一心に自分の幸せだけを求めて生きて行くことは難しい。それが必ずしも正しいとは限らない。しかし、垰家の歩以外の人々は自分の生き方に真っ直ぐに向き合って突き進んで行く。自分の幸せを全力で掴みにいこうとする。


 なぜそれが可能なのか。それは三人とも信じるものがあるからだ。三人ともよりどころを持っている。それは他人が決めたものではなく自分自身でつかみ取ったよりどころだ。しかし歩にはそれがない。貴子に言わせると、信じるものを持たない歩は揺れている。歩はそのことに三十七年間も気づかない。


 奇しくも僕も今年で三十七歳だ。僕にはあるだろうか、信じられるものが。自分で決めた、これだという信じられるものが。三人の生き方を見てはっきりと分かった。僕も歩と同じように信じられるものを未だに見つけられていない。なぜそう感じたか、それは歩の生き方を読んでいて身にしみる思いがしたからだ。自分と誰かを比べ、周りには興味のないふりをしながらも評価を気にして生きてきた。自分がこれだと思ったものをすぐにあきらめ、自分以外のなにものかのせいにし、これまで生きてきたように思う。もちろんそれでも生きていける。けれどその生き方の先になにがあるだろうか。歩のように揺れて生きる。あっちに行き、こっちに行き、その都度で考えを変え、自分を変える。変化の激しい今の時代なら、かえってこのような生き方の方が合っているのかもしれない。そういう生き方を推奨する識者の記事も読んだことがある。しかし、それはやはり逃げなのだと僕は思う。


 では自分が信じられるものをどのようにして探し出せばよいのか。そのヒントが貴子の生き方にあるように思う。彼女は子供の頃からおかしな行動ばかりをとってきたが、その行動のすべてが信じるものを見つけるための行動だったのだ。貴子は他人を気にせず色々と試した。自分にとって何が大切か。自分は何を愛せるか。必死で探したんだと思う。自分は愛されていないというのがわかっていたにもかかわらず。それを恨みやつらみにかえるのではなく。信じたと思ったものに裏切られることもあっただろう。それでも貴子は必死に信じられるものを探した。


 それを見つけるには相当な長い時間がかかる。貴子も歩も父の憲太郎も母の奈緒子も、長い時間をかけてやっと見つけることができた。おそらく彼らもそれを見つけようと強く意識して生きてきたわけではないだろう。生きにくいなと漠然と思うことの先に、なんとかこの自分の人生を生き抜くためにもがいた先に見つけるものなのかもしれない。


 そんなものなくても生きていけるという人もいる。そういう人はきっと別の部分で満たされている人だろう。効率よく生きている人かもしれない。悩まず笑って楽しく生きられればそんな効率のいい人生はない。けれど生きるということはもともと非効率なことなのではないだろうか。そして理不尽なことなのだと思う。だからこそ信じるものが必要なのだ。信じるものがないと生きていけないというのは決して弱い人間ではない。むしろ強い人間だ。それはこの小説に登場する人々を見れば納得がいく。


 損するかもしれない、誰かを傷つけるかもしれない、人に理解されないかもしれない、だとしても強く自分が信じられるものを見つけなければならない。そしてそれを見つけるためにかかる時間を受け入れなければならない。ぼくはすでに三十七だ。けれど遅くはない。これまで生きてきた時間からなのか、それともこれからなのか、ちょっとがんばってみようと思う。