本とゲームとサウナとうんち

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顔は弱いー「ペルソナ」(多和田葉子)を読んでー

 自分が自分であることを定義している要素は何だろうか。顔、体型、声、名前、血縁、国籍、言語、性別、いろいろと考えられるが、おそらくほとんどの人が「顔」で自分が自分であることを確認していると思う。自分の顔は自分のものであることに間違いはないが、この顔が本当に自分なのかどうか自信がなくなる時がある。それが他人が自分を見るときだ。他人が僕の顔を見て判断する僕と、僕自身が僕の顔を見て判断する僕は一致しないことがある。

 本作「ペルソナ」はそんな顔や表情にまつわる話だ。弟の和男と一緒にドイツに留学中の主人公道子は、精神病院に勤める知り合いのセオンリョン・キムという韓国人男性が院内で起きた事件の容疑者にされたという話をキムの同僚で道子の友人であるカタリーナから聞かされる。「優しそうに見えるが異常に表情がない。だから残忍さがその底に潜んでいても見えにくい」という理由で今まで一緒に働いていた同僚から嫌疑をかけられてしまったキム。これにカタリーナは、友人の日本人(道子)も表情はないが残忍さを隠しているわけではないと反論する。この出来事をきっかけに道子は自分の顔と表情に縛られていく。自分は本当にカタリーナが思っているような人間だろうかと。

 過去にこんな体験をしたことがある。

 とある街でスマホの通信料を払おうと携帯ショップに入った。女性店員に「通信料の支払いを」と言いかけると何かを察した顔になり他の男性店員に引き継いだ。その男性は妙によく通る声でハキハキとした口調で言った。
在留カードはお持ちですか」
 なんのことかわからず突っ立っているとジェスチャーも交えて口を大きく動かしながら「在留カード」と言ってくる。在留カードってなんだっけとしばらく考えるが何も頭に浮かんでこない。僕は思い切って店員に聞いた。
在留カードってなんですか」
 すると店員は何かに気づいたようにはっとして「失礼しました」と言い何事もなかったかのように支払いの手続きを始めたのだ。
 薄々感づいてはいたが、支払いを終えた僕は念のため在留カードをネットで検索した。予感は当たっていた。どうやら僕は日本人には見えないらしい。その街は東南アジア系の人たちが多く暮らす街だった。店を出ると通りには日本人ではないだろう顔をした人たちがちらほらと見える(彼らが日本人ではないという根拠は何もない)。僕が日本人であることは確実だがそれは僕が思っているだけで男性店員から見た僕は日本人ではなかった。

 イタリアに旅行に行った時だ。街中の露店や市場の人たちは僕の顔を見ると「ナカタ!ナカタ!」と声をかけてきた。当時イタリアのサッカーリーグで活躍していた中田英寿のことだ。彼らにとって日本人は皆ナカタなのだった。

 国籍だけではない。性格や人間性も顔や表情から決めつけてしまうことがよくある。「オタクっぽい」「チャラそう」「大人しそう」「すぐキレそう」。顔から勝手にいろいろなことを想像する。そして分かった気になってしまう。

 これは身近な人との間でも起こる。キムは普段から一緒に働いている同僚から嫌疑をかけられた。毎日顔を合わせある程度の理解をもって一緒に仕事をしていたはずなのにだ。よく知った顔の相手だから性格もよく知っている、この人はこう言う人だと自信を持って言えるはずなのに国籍の違いによる「顔の違い」が齟齬を生み出す。

 物語の中で道子は弟の和男にだけは信頼のような依存のような感情を寄せている。おそらく道子と和男は似た顔をしているのではないだろうか。道子が和男を信頼しているのは自分と同じ顔をしているからだと思う。和男と分かり合えていると思う道子だが実際はそうではない。そして道子自身も和男が思っているような姉ではないのだ。
海外で日本人の顔を見ると安心感を覚える。それは見慣れた顔を目にすることで言葉や習慣などが異なる地で分かり合える存在を見つけたと思い込むからだと思う。もしこの二人が日本で生活をしていたら違った関係性があったと思う。

 道子が日本語を教えているドイツ人のシュタイフさんは日本語を喋るとき無表情になる。正しい日本語でも無表情で話すとその言葉の受け取り方は変わる。言葉の意味は分かってもその人の真意がつかめない。強く分かり合えるはずの無表情によって言葉が役に立たなくなってしまう。

 物語は最後に道子が能面を被ることで顔から解放され日本人らしさを取り戻すところで終わる。突飛な行動に思えるがその気持ちがなんとなくわかる気がする。
 僕は九州のど田舎で育った。そこでは常に誰かに見られていてどこで何をしていたか田舎ならではの情報網で監視されている。道を歩けば知った顔に出会い僕は「マエダさんちの息子」にならなければならない。
 高校を卒業し上京するとその感覚は一変した。誰も僕の顔を知らない。誰も僕の顔を見ない。空気のような存在だ。かといって自分を見失うのではなく、顔を捨てることで強く「自分」を意識することができた。

 最近気づいたことがある。僕は会社にマスクをしていく。これは花粉症の時にしていたマスクの延長のようなもので今となってはしてもしなくてもいいのだがマスクをしていると精神的に落ち着くのだ。落ち着く理由は同僚に顔を見られないからではないかと思った。僕は同僚を信用していない。信用のない人に顔から勝手にいろいろと想像されないよう、わかり合っていると思われないよう顔を隠すことで安心感を得ているのではないだろうか。

 顔はとても強い。情報の塊だ。だから顔に縛られる。本当の自分、自分だけが知る自分は顔から解放された時にだけ出会うことができる。ただ、顔からの解放はいいことばかりではない。孤独になる。本当の自分になるために孤独になる。しかし孤独だと人とわかり合うことは難しい。堂々巡りだ。

 道子はいつまで能面をつけるつもりだろうか。それを外した時、自分を見失ってしまわないだろうか。心配だ。