本とゲームとサウナとうんち

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すべてを理解できるなんて思わないようにー「犬婿入り」(多和田葉子)を読んでー

 わからない。なぜ太郎はみちこの家に来たのか。電報とは何か。なぜみちこはいきなり現れた太郎に動じないのか。なぜ太郎は犬に噛まれて人が変わったのか、松原とはゲイ仲間なのか。なぜみつこは扶希子に固執するのか。なぜ太郎と松原は一緒に、そしてみつこと扶希子は一緒に逃げたのか。とにかくわからないことだらけだ。

 

 何度も読み返した。これはどういう意味なんだろう。どこかに何かが隠れているはずだ。ノートに人間関係や周辺情報を書き出してもみた。しかし小説に書かれてあること以上の事実を書き出すことはできなかった。

 

 もうわからん。とりあえず今日は寝よう。深夜二時を回っていた。読書感想文を書こうと机につき二時間ほど経っていた。

 

 歯磨きをしながらブックカバーを外し裏表紙のあらすじを追うともなく目で追った。そこに書かれてある一文が目に留まった。

 

「都市の中に隠された民話的世界を新しい視点でとらえた作品」

 

 はっとした。わからない、理解できないと思っていたのは僕が僕の常識だけで考えていたからだった。

 

 この小説のタイトルは「犬婿入り」だ。「犬婿入り」とは作中で主人公みちこが自身が開いている私塾に通う子供たちに話して聞かせる昔話だ。お姫様のお世話係をしていた面倒臭がりな女性が用を足した後のお姫様のおしりを犬になめさせていた。そうしていればいつかお姫様と結婚できると言い聞かせられた犬が後にお姫様と結婚するという話だ。昔話ではありえないことが起こる。そしてそれを読んでも不思議に思わない。なぜ人と犬が話せるのか。なぜ人と犬が結婚できるのか。そんなことを考えながら昔話を聴く人はいない。

 

 ではなぜ小説になると理由や理解を求めてしまうのだろう。小説「犬婿入り」も同じように読めばいいのだ。そのためにタイトルが「犬婿入り」で作中に昔話「犬婿入り」が出てくるのだ。

 

 本作は主人公みつこが開いた私塾を舞台に、前半はそこにやって来る子供たちとみつこの日常や素性のよくわからないみちこの噂をする母親たちを描き、後半は突然みつこの前に現れる太郎とその周りの人たちを描いている。

 

 まず読み始めて思ったのが冒頭の文章の長さだ。書き出しはワンセンテンスで六行も費やしている。その後も長い文章が続く。読んでいると、分かったような分からないような気分になってくる。これは作者が狙った効果なのだろうか。文章を長くすることで、次から次へと情報が入ってきて、頭の中がいっぱいになり景色がぼんやりとしてくる。ちょっと不思議な光景が浮かび、ちょっと不思議な空間にいるような感覚になる。おそらく冒頭からすでに始まっていたのだ。現実から昔話的な世界へと導くためにそれは始まっていたのだ。

 

 そこに加えて塾に通う子供たちの母親がする噂話。母親たちはよくわからないみつこという女性をなんとか自分たちの常識の範囲内に納めようといろいろと噂をするのだが、その噂が真実なのかどうかは語られず、みつことその周囲は絶えず噂でぼんやりとし、確証のない話でどんどん埋め尽くされていく。そうしてみつこというよくわからない人間が出来上がる。

 

 そして太郎という不思議な男が突如現れる。「電報は届きましたか」とみちこに尋ね、みちこが首を横に振るといきなりみちこの同意も得ずに交わり始める。しかしこのような異常な展開にもかかわらずみちこはそれを受け入れ、以降一緒に暮らし始めるのだ。

 

 太郎の生態はまるで犬。太郎が犬のようになってしまった理由や太郎の素性は読み進めていくうちに明らかになるがすっきりと理解できるものではない。けれどそれでいいのだ。桃から桃太郎が生まれた時におじいさんとおばあさんは、なぜ桃から赤ん坊が?なんて思わずに喜んで育て始めた。それでいいのだ。もともとは潔癖症だった太郎も犬に噛まれてから犬のようになってしまっただけなのだ。しかし周りの人間はなかなかそれが理解できない。なぜ理解できないのかもわからない。理解できてそれで何が解決するのかもわからない。

 

 みちこが太郎を受け入れた理由はみちこ自身に犬的な部分があったからだろう。太郎の唯一の趣味はみちこの体のニオイを嗅ぐことだった。太郎にニオイを嗅がれているうちに汗をかいたみちこは自分のニオイと自分の気持ちが結びついていることに気づく。自分にもどこか太郎のような説明の付かない部分があると感じているはずだ。

 

 みちこが受け入れた人物がもう一人いる。それが扶希子だ。扶希子とは、みつこの塾に通ってくる生徒で周りの子供たちから「変わっている」といじめられている。おそらくみちこも子供の頃に変わっていると言われいじめられた過去があるのではないだろうか。みちこは扶希子が嫌がるのも気にせず扶希子に固執し面倒を見る。みちこの太郎に対する想いも扶希子に対する想いも常人に理解されない人への共感、三人の共同体のようなものがあったのではないだろうか。

 

 そしてもう一人のみちこ側の人間が松原という男性。松原は太郎の男性側のパートナーだ。おそらく太郎はバイセクシャルだと僕は思う。女性のパートナーはみちこ、男性のパートナーは松原。この松原は扶希子の父親だ。ゲイである松原も周囲から異様な目で見られている。みちこは太郎や扶希子同様、松原に対してもマイノリティーであることのシンパシーのようなものを感じたのではないだろうか。

 

 しかし太郎の過去を太郎の妻や周りの人から聞かされるうちに「太郎を目にした時の恍惚感」が薄らいでいく。「恍惚感」とはどういうことだろうか。太郎を目にした時みちこは特別な反応を示してはいない。しかしどこかでみちこは太郎のような存在、本能で生きるような存在に憧れをいだいていたのだろうか。あるいは自分と同じタイプであることにシンプルに喜びを感じていたのだろうか。

 

 その日は突然訪れる。太郎は松原とどこかへ消え、みちこは扶希子を連れてどこかへ逃げる。太郎も松原もみちこも扶希子もこのままここにいると、いずれ世間の常識と噂に押しつぶされ居場所がなくなると感じたのだろうか(扶希子はみちこに無理矢理連れていかれたのかもしれないが)。

 

 この作品は常に三人称神視点で語られる。常識のみが通用する世界、常識が意味をなさない多様性の世界、どちらの世界が正しいというわけではなく平等に語られている。とはいえ結局は太郎、松原、みちこ、ふきこは街を出て行く。

 

 時代が、なんて言いたくはないが今は多様性と言いながらも、理解できないこと、常識の外にあるもの(そもそも何が常識なのかわからないが)をすぐに排除しようとする。自分が知らない価値観を受け入れようとせず自分の常識の範囲内だけで処理しようとする。

 

 誰にも迷惑をかけていないのであれば(太郎は少し迷惑をかけているが)変でもいい。答えやデタラメだらけの真実が簡単に手に入る今、もっと生きるのは自由でいい。答えを求めすぎないことが大事だと思う。

 

 それは小説を読むときも同じで、面白い面白くないはさておき、理解というものは必ずしも必要ではなく、それを受け入れる気持ちで読むことが大切なのだと「犬婿入り」を読んで実感した。世の中のすべてのことを理解できないように、小説のすべてを理解できるとは限らない。小説にすべてが書かれてあるとは限らないのだ。