本とゲームとサウナとうんち

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僕が短歌を詠む理由ーはじめての短歌(穂村弘)を読んでー

ある朝通勤電車の中で突然思った。

 短歌を詠もう。

 なぜか分からない。いつもと同じ代わり映えのしない朝を変えたかったのだと思う。その日が月曜日だったことも大きい。またいつもの一週間が始まる。この絶望をどうにか変えたかった。というより忘れたかった。当たり前のように通勤電車に乗り、当たり前のように会社に行く。変えられるはずもないことは分かっていた。せめて僕の心の中だけでも、通勤電車の中にいるときだけでも変えたかった。

 なぜ俳句ではなかったのか。世間ではあるテレビ番組をきっかけに俳句ブームが起きている。僕が短歌を選んだのは文字数だ。僕の頭の中に浮かんだ言葉を表現するには五七五では短すぎた。五七五七七、つまり三十一文字が必要だった。

 その日の朝、電車の中で考え、ツイッターに投稿した短歌がこれだ。

今週もtotoBIG外れ六億円ゲットならずに出社する朝

 毎週買っているサッカーくじがもし当たって六億円が手に入ればその日のうちに会社を辞めることができる。毎朝決まった時間に満員電車に乗る必要もなくなる。もちろん、当たるわけがないのだ。月曜日に起きるとまず結果を確認する。そして支度をして家を出る。それだけの歌だ。人が聞いたら馬鹿にするだろう、本気で六億円当てようと思っているなんて。けれど、こうして詠むことで代わり映えのしない毎日に少しだけ抵抗することができたような気がした。

 この日以来、平日の通勤電車の中で一つ短歌を詠もうと決めた。詠もうと決めたのは良かったがなんとなく五七五七七のリズムに合わせて言葉を並べるだけの毎日が続いた。会社のこと、仕事のこと、お金のことなど、身近なことばかりが頭に浮かび、なかなか毎日という絶望から抜け出すことができなかった。

 数日経ったある日、本屋でこの本を見つけて手に取った。短歌を詠み始めたはいいものの、どう詠めばいいのか、なぜ短歌を詠むのか根本的な疑問が頭から離れなかった。そんな僕に「はじめての短歌」というタイトルのこの本はうってつけだった

 なぜ短歌を詠むのか、その答えがすぐに書かれてあった。

 短歌を詠む理由、それは「生きる」ためだ。「生きのびる」ためではなく。


「生きのびる」とは何か。僕の代わり映えのしない毎日のことだ。経済的で常識的で効率的であろうとすること、誰もが知って理解していること、つまり社会的であること。「生きのびる」ためにはそれらの社会的な価値がとても重要になる。駅のアナウンス、コンビニ、必ず開く自動ドア、出世、会社の売り上げ、急いでもいないのに急行に乗ること、興味もないのにタダだから行列に並ぶこと、お一人様三個までと言われたら三個取ること。


 これらの「生きのびる」要素は、自分の価値観や感覚に関係なく僕たちに社会と繋がることを強いる。「強いる」という言葉を使ったのは僕らのもうひとつの生である「生きる」を「生きのびる」が侵食しつつあるからだ。


 僕たちは、社会的な「生きのびる」生活と個人的な「生きる」生活を行ったり来たりしている。ひとたび家を出れば「生きのびる」ための自分になり、家に帰れば「生きる」ための自分になる。けれど歳を追うごとに「生きのびる」ための自分が占める割合は大きくなっていく。それは社会性を身につけ、便利や効率といったラクを学ぶからだ。


 毎日の電車の中で思っていた”人生を無駄にしている”という感覚はこの「生きのびる」が強すぎるせいだったのだ。そういった「生きのびる」要素を排除したところに短歌を詠む理由である「生きる」がある。本当の僕たちの人間としての意味がある。
 

「生きのびる」ための感覚ともう一つ、短歌を詠む上で障壁になっているのが、僕の職業だ。


 僕の職業は、企業の商品やサービスを広告するための記事、いわゆる記事広告を専門に書くライターだ。


 そこでは企業が商品を売り利益を上げるための言葉、つまり「生きのびる」ための言葉ばかりが使われる。それは僕が給料をもらうための言葉でもある。クリックしやすい言い回しか、文字数は多すぎないか、クライアントが指定したNGワードは使っていないか、ターゲットに適しているか、「生きのびる」ための言葉や書き方がばかりが要求される。こうも毎日「生きのびる」ための言葉ばかりを使っていては短歌を書くときに感覚を「生きる」にしても言葉が「生きる」に切り替わってくれないのだ。


 自分の言葉を失いそうだ。


 たまにそう思うことがある。それは僕が「生きのびる」ための社会のシステムや「生きのびる」ための言語に飲み込まれはじめているからだろう。その流れから脱出するために無意識に僕の危機管理能力が発揮されたのかもしれない。自分の言葉を、「生きる」ための言葉を取り戻すために短歌が必要だったのだ。


 とはいえ、今まで生活の、そして思考の中心だった「生きのびる」ための感覚と言語を「生きる」ための感覚と言語に切り替えるのは簡単なことではない。電車の中でなんとか「生きる」感覚を探っても会社に着けばとたんに「生きのびる」ための自分が顔を出す。経済に効率に常識に社会に、まとわりつかれる。


「生きのびる」ための毎日は虚しく疲れる。
誰も知らない認めない得しないそんな自分だけの「生きる」感覚を取り戻すために僕は短歌を詠み続ける。


 花は枯れる。だから枯れない花を作ろう。ではなく、花が枯れることを受け入れ、そこから広がる過去や未来への悲しさや美しさを感じ取るのだ。

 

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