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親子は、なりたくてなるものではない ー私の男(桜庭一樹)を読んでー

 

私の男 (文春文庫)

直木賞受賞作


 僕はあまり恋愛小説を読まない。人の恋愛に興味がなく、小説で語られる恋愛にそれほど面白みを感じないからだ。

 過去に本屋で何度も「私の男」を手に取った。しかしレジに持って行くことはなかった。その理由が裏表紙に「愛に飢えた親子が超えた禁忌」と書かれてあったからだ。この本に対して「親子の禁断の愛を描いた小説」というイメージを抱いていた。ではなぜ今回読もうと思ったのか。それは直木賞受賞作だからだ。恋愛小説が好きではないとはいえ、直木賞受賞作なのだから読んでおいたほうがいいだろう、そんな消極的な理由で読み始めた。

 


●恋愛小説ではなかった

 結論から言うと恋愛小説ではなかった。いや、恋愛小説でもあり、ミステリー小説でもあり、親子小説でもある。様々な読み方ができる小説だった。

 その理由は構成にある。

 本作は、娘である花と養父である淳悟の関係を、現在(花が二十四歳、淳悟が四十歳)から二人が出会った過去(花が九歳、淳悟が二十四歳)までさかのぼって描いている。全部で六章ある中でも重要なのが第一章だ。第一章にはその後へとつながる伏線が詰まっている。そして章が進むにつれて第一章で蒔かれた種が芽を出し花を咲かせ実をつける。この第一章で蒔かれる種が実に様々なのだ。その一部を抜粋しよう。

「けっこん、おめでとう。花」

 



腐野淳悟は、わたしの養父だ。

 



震災でとつぜん家族をなくした。

 

 

「殺したからね」

 

 

養父で、罪人。

 

 

離れられない。そばにいたい。もう、離れないといけない。でも、できるだろうか……。

 

 

美郎に助けられて、結婚してここを出ていっても、うまくいかないのかもしれない。

 

 

私の男の、せいなのだろうか。なにもかも取りかえしがつかないのだろうか。

 



わたしたちのあいだにもう欲望はなかった。

 



「一緒に逃げたんだよな。こんな遠くまで。あれから、もう八年か」

 



わたしは、できるならまともな人間に生まれ変わりたかった。

 



淳悟はとうとうわたしの前からいなくなったのだった。

 



 殺人とは何か、なぜ花は淳悟から離れたいのか、一方でそばにいたいと思う花の心理とは、まともな人間とは何か、なぜ淳悟はいなくなったのか、第一章を読み終えて謎と共に様々な感情が湧き起こってきた。これは僕が思っているような小説ではない、普通の男女の恋愛話ではない。


●構成を読む

 第二章以降、過去へと戻りながら謎への答えや花と淳悟の「奇妙な」関係性が描かれていく。

 ここで簡単に各章を説明しよう。

第一章:2008年 6月
花、二十四歳。淳悟、四十歳。
花の目線で、花と美郎の結婚の話から始まり、先ほど書いた伏線の数々が語られる。淳悟が目の前から姿を消し、花は誰から何を奪って生きていけばいいのかと自問する。

第二章:2005年 11月
花、二十一歳。淳悟、三十七歳。
美郎の目線で、花との出会いや美郎が初めて淳悟を見た感想、美郎から見た花と淳悟の関係について、そこから美郎と自信の父親との関係について語られる。

第三章:2000年 7月
花、十六歳。淳悟、三十二歳。
淳悟の目線で、当時の花と自分の関係、そして淳悟が犯した罪が語られる。

第四章:2000年 1月
花、十五歳。淳悟、三十一歳。
花の目線で、花と淳悟の関係や花が犯した罪など、上京前に二人が住んでいた北海道紋別での出来事が語られる。なぜ上京することになったのか、淳悟との関係を花がどう思っているのかなど思春期の花の葛藤が見て取れる。


第五章:1996年 3月
花、十二歳。淳悟、二十七歳。
淳悟のかつての恋人である小町の目線で、淳悟と花の関係性の不気味さが語られる。小町は二人の関係を「グロテスク」と表現し、花が淳悟に魂のようなものを奪われていることに気づく。

第六章:1993年 7月
花、九歳。淳悟、二十五歳。
花の目線で淳悟との出会いが語られる。当時花は奥尻島に住んでいたが地震で家族を失い淳悟に引き取られることになる。そしてなぜ淳悟と花が「関係」を持つことになったのか明らかになる。

 もしこの話が時系列通りに第六章から始まっていたら「禁断の愛」が作品の土台になり、その後の殺人や家族や親子の話がどこか添え物のようになってしまっていただろう。第一章でいくつもの謎を提示し、それを回収することで各章にインパクトができ、さらなる伏線を張ることで読者が様々な感情を抱きながらも先へと読み進めたくなる構成になっている。


●美郎と小町の役割

 構成のほかに小説に奥行きを与えているのが第二章の美郎と第五章の小町の語りだ。

 花と淳悟について美郎と小町に語らせることで、奇妙な親子関係を外部から眺め批評する役割を担わせている。美郎と小町の語りがなければこの物語は読者を置き去りにし奇妙なまま進んでいただろう。美郎と小町が、読者が花と淳悟の関係に抱く不安や不気味さを、そこから生まれる物語の特異さを中和しているように感じた。


●この親子をどう理解するか

 奇妙な親子関係と書いたが僕は本作を読み、二人の関係性を理解できたかどうか自信がない。読了後に二度ほど読み返してみたが、分かったような分からないようなモヤモヤとした感覚がいつまでも残った。それは二人の性的な関係に対するものではなく、なぜ親子がこういう求め方をするのかということだ。もちろん二人のバックグラウンドが影響していることは明らかだ。

 子供の頃、母親を失った淳悟は花に心身ともに母を求める。母に愛されたかったという想いを花にぶつけるその表現が結果的に「やってはいけないこと」という狂気へとつながる。

 子供の頃に地震で家族を失くした花は、自分だけをこの世に置いていった家族への恨みと嫉妬を抱きながら淳悟に血のつながりを求める。そのために、花は淳悟の狂気に恐れながらも淳悟の母になり淳悟を愛することを選ぶ。花が淳悟から離れられなくなった理由のひとつが淳悟が発した「血の人形」という言葉だろう。この言葉が花にとって「呪い」となり以降の人生を淳悟に捧げることになってしまう。

 二人はお互いに愛し合っていたかもしれないが、求めたものは微妙に違うものだった。淳悟は母を、花は親子を求めた。花は成長するにつれてその「ずれ」に気づき始めていたのだろう。そして、淳悟の元を離れる決断をしたのが第一章だ。第一章の最後に誰から何を奪って生きれば、とあるがこれまで花が淳悟から何かを奪ったことがあっただろうか。小町が言うようにむしろ奪ったのは淳悟の方だ。九歳の少女の魂を奪い、代わりに母親の魂を背負わせる。淳悟が花の前から姿を消したのはその負い目があったからだろう。しかし、もし九歳の頃、花がしっかりと淳悟を拒否していれば淳悟も別の生き方が、二人にとってまともな生き方があったかもしれない。そういう意味では花が淳悟の人生を奪ったとも言える。

 しかし、こう言ってしまうと、元も子もないのだが、二人の気持ちは二人にしか理解できない。もし、ほかの誰かが二人と同じような境遇に置かれたとしても、このような親子にはならないだろう。この二人だからこそ、こうなってしまったのだ。僕がなんとか理解しようと文章にまとめてみたところで、モヤモヤが消えることはない。


●「私の男」の男とは

 通常の家族において、父は父であり、息子は息子であり、兄弟は兄弟であり、男ではない。母は母であり、娘は娘であり、姉妹は姉妹であり、女ではない。つまり家族で性別を強く意識することはない。性別の前に関係性を意識するからだ。

 ではタイトルの「男」とはなんだろう。花にとって淳吾は父であり息子であり愛すべき人でもあった。その複雑な関係が淳吾を「男」にしてしまったのだろう。淳吾も然り。花は娘であり母であり愛すべき人、「私の女」だった。

 血が繋がっていたにもかかわらず二人の過去が互いの関係性に性別を持ち込んでしまった。花と淳吾は互いを愛し必死に親子になろうとしたが男女という性別がそれを邪魔し、二人の関係を快く思わない人たちがまた邪魔をした。二人が犯した殺人も親子になるために必要なことだったのだろう。

 二人は親子になれたのか。花は結婚を選び淳悟から離れ、淳悟は姿を消した。離ればなれになってしまったように思えるが、実はそれが二人が親子になる唯一の方法だったのではないだろうか。

 淳悟が言っている。

「親子ってのはさ、いつか、離れていくものなんだ」

 



●テーマやジャンルを考えずに読む

 結果的に僕はこの小説をうまく理解できなかったわけだが、その原因の一端は僕の小説の読み方にもあると思った。

 僕は小説を読むときにこの小説のテーマは何だろう、どういうジャンルだろうと小説の枠組みのようなものを気にしながら読んでしまう癖がある。結果的にそれが先入観となり本の楽しみ方を限定してしまうことになっているのだ。

 テーマやジャンルや理解や共感だけが小説ではなく、その世界観をどれだけ楽しめるか、登場人物の生き方をどれだけ受け入れられるかといった、もっとプリミティブな感覚で読むことが大事だと今回の読書で感じた。

 

 

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)