本とゲームとサウナとうんち

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当たり前のことをもう一度考え直すー観察の練習(菅俊一)を読んでー

観察の練習


 観察とは何か。

 本書の中で著者はこう言っている。

観察とは、日常にある違和感に気づくこと。


 この本を読んで僕が思った観察はこうだ。

観察とは、当たり前のことをもう一度考え直すこと。

 これは著者の言う「違和感」に気づくための過程とも言える。目の前にある当たり前のことをもう一度考える。すると違和感に気づくのだ。

 本書には著者が気づいた「違和感」が八つの章に分けて、写真一枚と短い文章で五十六個収録されている。

第一章:痕跡から推測する
第二章:先入観による支配に気づく
第三章:新しい指標で判断する
第四章:その環境に適応する
第五章:世界の中から構造を発見する
第六章:理解の速度を推し量る
第七章:リアリティのありかを突き止める
第八章:コミュニケーションの帯域を操作する

 目次から難しく感じるかもしれないが、扱っている題材はどれも日常にあるものばかりだ。しかし、読んでいて「なるほど」と思ってしまう。それは自分が「違和感」に気づかずに、そして気づけずに生活しているからだ。
 中でも僕がはっとしたのがこの三つだ。

1-2:無意識に取る最短経路
5-5:エラーの生まれ方
6-4:「使用禁止」の伝え方

 例えば「無意識に取る最短経路」は、「歩道とその境界線にある芝生」を写した一枚の写真が違和感の元なのだが、いったい著者が何に違和感を覚えたのか分からない。よく見てみると、歩道との境界線にある芝生が曲がり角の部分だけはげていることぐらいはわかる。芝生がはげることなんてよくあることだ。しかしここで立ち止まり、芝生がはげているという当たり前をもう一度考えてみる。すると違和感に気づくのだ。なぜここだけはげているのか。それは人が角を曲がるときに無意識に最短経路を通ろうとして芝生に立ち入ってしまうためだ。言われてみればなんてことないのだが、これに気づけない。これが観察だ。

 


●桶にまつわる観察

 最近「これが観察か」という出来事に遭遇した。

 とある銭湯でのことだ。サウナから出た僕は汗を流そうと水風呂の縁にあるこのような形状の風呂桶を手に取った。

 

ケロリン 手おけ 00581

ケロリン 手おけ 00581

 


 すると水がすでに貯められていた。次に使う人のためにわざわざ貯めておいたのだろうか。ありがたいのだが、理由のない気持ち悪さを感じてしまい、その水を一度捨て、自分で掬って体にかけ水風呂に入った。桶は空のまま縁に置いておいた。すると水風呂の前を通りこれからサウナに入ろうとしていたおじさんが桶に水を貯め縁に置いてからサウナに入ったのだ。どうやらこの銭湯では水風呂に入る人のために桶に水を貯めておくのがマナーらしい。そんなことを考えていると、サウナから出てきた別のおじさんが桶に入った水を捨て(!)自分で掬い汗を流した。そして使い終わった桶に水を貯めてから水風呂に入ってきたのだ。

 その後も水風呂の様子を観察していると皆貯めてある水は使わずに、しかし使い終わったら桶に水を貯めて縁に置くのだ。

 ふつふつと僕の中で「違和感」が沸いた。
 
 あの水は、次に使う人のために貯めているのではないのかもしれない。水を貯めるという行為は本来水を使うために行われる行為だ。しかしここではそうではない。

 そして僕は観察の終着点に辿り着いた。

 なぜ水を貯めていたのか。それは、桶が倒れないための重しだったのだ。この形状の桶は倒れやすい。空のままだと水風呂の出入りの際に少し当たっただけでも倒れてしまう恐れがある。水を貯め重しにすることでそれを回避していたのだ。

 


●観察を難しくするもの

 なぜ観察が難しいと思うのか。人は自分に必要な部分だけを見て生きているからだ。大人になればなるほど、様々な経験をすればするほど必要最小限の、効率を重視した物の見方を覚える。そのたびに観察という概念がそぎ落とされていく。自分にとって当たり前になっていることや(何が当たり前なのかさえも気付けないことが多いのだが)当たり前の価値観、世の中のシステムといったものを疑い考え直さないと「違和感」には気づけない。

 そして最も難しいのは、観察は問いも答えも自分で用意しなければならないということだ。これだけ情報が溢れた世界で自ら問い自ら答えることはそう簡単ではない。自分のものではない誰かの価値観が自分の中に貯まりすぎている人にとってなかなか難しいだろう。


●観察は人間の特権

 観察の最大の特徴は、観察は人間にしかできないということだ。効率性や最適解、エラーを探すことが目的のコンピューターにはここでいう「違和感」を見つけることはできないだろう。また、こういった考え方を持つ人間も観察には向いていない。そしてそういう人はきっとこう言う。

「観察がいったい何の役に立つのか」

 そんな人には本書の最後にある著者の言葉を贈ろう。

 

さあ、観察を練習しよう。そして世界に溢れている面白さに気づいていこう。それさえできれば、きっと前よりも少しだけ、生きることが楽しくなるはずだ。

 

 

観察の練習

観察の練習