偽善のススメ
朝の通勤電車。座れるなんて思っていない。しかしたまに座れる瞬間が巡ってくる日がある。その日の朝がそうだった。
つり革につかまった自分の目の前に座っている乗客が、僕が乗った次の駅で降りたのだ。たまにはこんなラッキーがあってもいい、と思った次の瞬間、僕の隣にいた女性、つまり降りた乗客の斜め前に立っていた女性が、座ろうとモーションをかけている僕をすり抜けてその席に腰を落ち着けた。空いた席に座るのに、先にその電車に乗っていた人が優先というルールでもあるかのように。そして、スマホでゲームを始めた。
そもそも、座れるなんて思ってはいない。けれど座れる!と思った瞬間に座れなくなると、しかもちょっと理不尽な理由で(これは理不尽と呼んでいいだろう)座れなくなると、そりゃイラッとするものだ。しかも通勤電車の中ならなおさら。たかだかこんなことでストレスは溜まっていく。
たまるべくしてたまるストレスもあれば、このように溜めなくてもいいのに溜まってしまうストレスもある。
ストレスの原因に大小はあるだろうが、溜まってしまえばすべて同じなのだ。心のゴミ箱はすぐにいっぱいになる。
たかだかこんなことで溜まったストレスを酒を飲んだりサウナに行ったりわざわざ金を使って発散させなければならない。お金を使っい無駄に酒を飲み記憶をなくし路上で寝る。起きるとスマホがバキバキに割れバッグや財布がなくなっている。罪悪感と自己嫌悪というストレスがまたたまる。
ストレスの溜まり方も発散の仕方も人それぞれだろうが、万人に効くのではないだろうかと気付いたストレス解消法がある。
それが「偽善」だ。
きっかけは仕事で参加したごみ拾いイベントだった。拾うごみの種類や重さでポイントが決まり順位を競うスポーツ要素の入ったごみ拾いだったこともあり、良い結果を残そうと一心不乱にごみを拾った。そして40分のごみ拾いを終えた僕の気持ちは今までにない清々しさだった。結果は振るわなかったが、ごみを拾うという行為によって胸がスッとしたのだ。
天気のいい海のそばで拾ったせいもあるだろう。海のそばならきっと落ちているはずと目を凝らして探し、やっとのことで使用済コンドームを発見できた達成感のせいもあったかもしれない。しかし、とにかくごみを拾い海をきれいにしたという事実が僕のストレスを減らしてくれた。
しかし、これはあくまでイベントでのごみ拾いだ。しかもスポーツ要素が入っている。普段の生活で同じことができるだろうか。後日、通勤途中に僕は思い切って道端に落ちているごみ(なんのごみかは忘れたが)を拾いコンビニのごみ箱に捨てた。捨てた瞬間に僕の心に浮かんだのは「偽善」という感覚だった。普段は道端に落ちているごみなんか拾わない。良い人ぶったわけではないが、もう一人の自分がごみを拾う自分を見て「偽善」とつぶやいた。しかしそのあとにやってきたのは何ともいえない清々しさだった。「俺いいことしたじゃん」という快感が胸を通り抜け、少しだけ心が軽くなったのだ。
お昼、コンビニで袋とストローを断った。いつもならもらうシーンだ。ビニール袋もストローも環境に良くない、だからもらわない、という偽善。「俺いいことしたじゃん」胸がすーっとした。
コンビニで誰かがぶつかって棚から落ちた商品を元の場所に戻すという偽善。
電車内をころころと転がる空き缶を拾い、降りた駅のホームにあるゴミ箱に入れるという偽善。
目の不自由な人の手を引いて横断歩道を渡るという偽善。
電車で人に席を譲るという偽善。
いろんな偽善を試してみた。いずれも胸がスッとした。そして日常の中で偽善を行うシーンは思ったよりも多くあった。
なぜ偽善がストレス解消にいいのか。おそらく誰かの役に立っていると思えるからではないだろうか。日々の仕事ではいったい自分の働きが誰の何の役に立っているのかわからない。誰の役に立っているのかわからないのに、何かをし続けることはかなりのストレスだ。そして、見返り。人はどうしても自分の行動に対して見返りを求めてしまうものだ。
しかし偽善は、誰かの役に立っていると思うことができる。偽善だとわかってやっているから見返りを求めない。
この見返りを求めないという考えはとても大きいと思うのだ。
自分の行動に対して常に見返りを求めていると、とても疲れる。しかし現代はそれを求められる。いわゆる合理性というものだ。やったらやった分だけ何かを得ることが正とされる今、見返りを求めない偽善がとても楽なのだ。
偽善と言っても気をつけなければならないことがある。それは偽善によって人より優位に立とうとしないことだ。例えば、信号無視をした人を注意する、ごみのポイ捨てをした人を注意する、これらは偽善ではない。いやむしろこれは本当の偽善になってしまう。
ん?じゃあ今まで僕が言っていた偽善は何なのか。
偽善には二種類あると思う。一つは今言ったように信号無視をした人を注意する偽善。これがおそらく世の中の一般的な偽善のイメージ、本当の偽善。自分の行動により人を責める行為。最近はリアルでもネットでもこの偽善が多い気がする。人によってはこれをストレスのはけ口にしている人もいる。これはストレスを発散しているようで責めるというストレスを抱え込んでいる。このストレスを発散するために人を責める偽善に走るという負のサイクルが生まれる。
僕が言う偽善はそうではない。誰かの役に立っているかもしれないと思いながらも見返りを求めない行為のことだ。自分の行為が大事なのであって他人がどうこうではないのだ。これは言い換えると優しやではないだろうか。他人がどうこうではないと言っておきながら優しさと言うと矛盾しているように聞こえるが、誰か特定の人に対する優しさではなく、世間、社会、自分が生きている世界に対する優しさだ。この優しさが人を責めることはない。
この偽善を始めるのに必要なのはちょっとした勇気だ。偽善をする自分に対する恥じらいや「あいつ偽善やってるよ」という人を責める偽善を行う人たちの視線を乗り越える勇気さえあれば、その先には気持ちよさと優しさが待っている。
ストレスが溜まっている人は、ぜひ一度この偽善を試してみてほしい。