本とゲームとサウナとうんち

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夢という言葉を過大評価していないか

とある企業の広告のキャッチコピーが話題らしい。

 

その一例がこちら。

 

会社勤めを理由に夢を諦めてはいけない。

 

予算を理由に夢を諦めてはいけない。

 

お金を理由に夢を諦めてはいけない。

 

これはクラウドファンディングプラットフォーム「CAMPFIRE」の屋外広告のキャッチコピーだ。「○○を理由に夢を諦めてはいけない」というフォーマットになっており、○○の部分に夢を叶える際にネックとなる様々なワードが入る。

 

夢を応援するサービスを的確に言い表したいいコピーだと思う。けれど僕の心には響かなかった。いいコピーというより正論だよなあと納得してしまったのだ(納得したということはいいコピーなんだろうけど)。

 

話題になっている理由。それはこのキャッチコピーに賛否が集まっているからだ。

「賛」はわかる。問題は「否」だ。いったいどんな「否」があるのか。

 

ツイッターで調べてみたところ、あまり否定的な意見は見つからなかった。もっと「夢なんて夢みたいなこと言ってんじゃねー!」とか「夢夢ってウゼーんだよ!」とか、激しい否定がうじゃうじゃあるのを期待していたのだが、

 

「夢とか目標とかないんだけど」とか

「夢っていう単語が息苦しい」とか

「視野が狭くなりそう」とか

中には「うるせーよ、黙ってろ、余計なお世話だ」という激しい口調のものもあったが、それも一つや二つぐらいであとはおだやかな意見が多かった。

 

「賛否」あると聞き、このキャッチコピーに否を唱える人たちを題材にこの文章を構成しようと思っていたのだけど、ここまで少ないとなんだか書くこともなくなってしまう。とはいえ、たとえ少ないとしてもなぜ「否」が起こったのか考えてみようと思う。

 

  • ポイントはやはり「夢」というワード

 

このワードを聞いて否定的な反応をしてしまった人たちは「夢」という言葉を過大評価しているのではないだろうか。賛成している人たちも同じような感覚だと思うが。

 

夢とは、とても偉大で大切で貴重なものという感覚が強いのだ。

 

こうなってしまったのは子供の頃の「将来の夢は?」という質問に原因があると思う。将来の、未来の、つまり遠い先にある「夢」だ。子供たちは主になりたい職業を答える。あるいは何か成し遂げるべき偉大なことを挙げる。しかも求められる答えはひとつ。つまり「将来の夢」とは唯一無二のものなのだ。

 

子供の頃のこの思い出のせいで、夢という言葉が子供の戯言のような、遠く手の届かないところにあるような、おぼろげな、けれど、叶えなければならないような、そんなものとしてイメージされてしまっているのではないだろうか。

 

もちろん、こういう夢の感覚も大事だろう。けれど、すぐ近くにある小さな夢というものだってあるはずだ。

 

  • 夢には二つある

 

突然だが、僕の夢は会社勤めはせず家で小説や好きな文章を書いて暮らすことだ。

しかし、この夢が叶うめどは立っていない。いつ叶うのかわからない遠く未来にある夢だ。

 

そしてもう一つの夢は久々に週末に銭湯に行き、サウナに入り、その後ビールを飲むことだ。

 

「は?そんなの夢じゃないだろ」と思う人もいるだろう。いや、夢なのだ。僕にとっては目の前にある夢なのだ。遠い未来ではなく。

 

夢には二つあると僕は考える。それは夢までの距離、あるいは夢の速度で決まる。

時間がかかるのか、それともすぐ叶うのか。遠い夢か、近い夢か。この二つの夢を使い分ければ夢というワードに敏感になることもない。

 

子供の頃の「将来の夢」は夢までの距離が遠く、夢の速度は遅い。どこに夢があるのか、いつ着くのかわからない。まだ見ぬものだから期待を抱く、逆に不安にもなる。大人になってなお遠い夢しか持っていないとしんどいだろう。先が見えない、ゴールが見えないまま日々を過ごさなければならない。大人になったら遠い夢を持ちつつ、近い夢ももつべきだと思う。

 

近い夢とは、子供の時に思い描いた夢よりも現実的で、夢までの距離がある程度わかっていて、そこまでどのような速度で向かえばいいのか予測ができる夢だ。

 

今週末、定期券圏内の銭湯に行き、サウナセットの券を買い、サウナに入り、その後駅前の居酒屋でビールを飲む。たったこれだけのことだか、これを夢だと認識できない人は今回の夢というワードに異を唱えてしまうだろう、あるいは「夢なんてないんですけど」という子供じみた(といってしまうのは言い過ぎか)発言をしてしまうのだろう。

 

クラウドファンディングをしている人たちは皆近い夢をきちんと認識できていると思う。自分の夢までの距離がどれくらいなのか、そこに行き着くまでに何がどれくらい必要なのか。クラウドファンディングと聞くと、なにか大きなことを成し遂げるというイメージがあるが、実は近くの夢をしっかりと見据えた人たちが始めているのだと思う。

 

もちろん、まだ見ぬ夢を持つのはもちろんいい。ただ、それだけだと大人になったときに生きるのが逆につらくなる。それとは別にすぐ叶えることができる近い夢も持つことが大事だ。その近い夢が遠くの夢へとつながっている、なんてこともあるかもしれない、こればっかりは結果論だが。

 

 

  • 「諦める」は終わりを意味するのか

 

今回賛否を呼んだもうひとつの理由が「諦めてはいけない」というワードだ。

「夢+諦めるor諦めない」というセットが「夢」というワードをさらに過大評価へと導いた。

 

これは、実際に夢を諦めて、その夢に対してもう可能性を感じられず、絶対的に無理な理由があることを自覚している人たちが敏感になったのではないだろうか。こういう人たちにとって「夢を諦めてはいけない」というワードは傷跡に塩を塗るような感覚を受けてしまったのかもしれない。

 

そもそも諦めるという言葉は終わりを意味する言葉だろうか。学生のときを思い出してみよう。好きな人ができる。告白する。振られる。そして、諦める。しかし、諦めきれずに告白する。そして振られる。諦める。やっぱり諦めきれずに告白する。そして振られる。

 

例えがわかりにくいかもしれないが、諦めるとは終わりではない。「諦める」という言葉には「とりあえず今は」という意味が言外に含まれている、と僕は勝手に思っている。とりあえず今はやめとく。けれど、いつかまた諦めきれなくなる時がくるはずだから、そのときに実行に移せばいい。これぐらいの感覚だ。

 

今週末はサウナを諦めた。時間がなかった。お金がなかった。けれど、来週は給料日だ。来週末はサウナに行く。夢を諦めないとはたったこれだけのことで表現できるのだ。

 

  • 「諦め」と「見極め」の違い

 

今回のコピーが僕に響かなかった理由は年齢にもあるかもしれない。今年38歳になる僕は今まで何度も転職を繰り返してきた。最近また転職をしようと思っているが行きたい企業なんてない。僕がしたいことは先ほど書いたことだけだ。

 

若い頃は色々と夢があったように思う。映画を作るとかCGデザイナーになって海外で働くとか。これらの夢を僕は諦めたのか。いや諦めたのではない。「もうちょっと無理だよね」と自分の可能性を見極めたのだ。

 

言葉遊びのようになってしまうが、「諦め」ではなく「見極め」なのだ。自分のこれまでの生き方や能力を振り返り総合的に判断して「無理だよね」と見極めたのだ。そこにはあまりネガティブな感覚はない。誰かに何かを言われたわけでもなく圧力がかかったわけでもない。自分で納得し、自分自身の意思でそう判断したのだ。

 

一方で諦めるとは自分一人の判断ではないことが多い。先ほどの告白のたとえでもそうだが、諦めるというのは外的要因がほとんどだ。だからこそ「とりあえず今は」なのだ。今じゃないいつかまたその機会がやってくると思えばいい。「諦める」は「見極める」よりも希望のある言葉なのだ。

 

  • 夢は意志の強い人のものだけではない。

 

以上のようなことから「夢」や「夢を諦めてはいけない」という言葉を過大評価しない方がいい。意志が弱くても夢は叶えられる。

 

本当にダメになりそうな時は諦めるのではなく見極めるのだ。諦めるとどうしても誰かのせいにしてしまう。そうではなくしっかりと自分と向き合って見極めることが夢と付き合っていくには大事な感覚ではないだろうか。

 

僕の夢の感覚は今回の件とは少しずれているかもしれないが、こんな夢の捉え方があってもいいのではないかと、ゆるく思うのだ。