本とゲームとサウナとうんち

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考えない人は簡単にコントロールされてしまう ー1984年(ジョージ・オーウェル)を読んでー

 「1984年」は1949年にジョージ・オーウェルによって書かれた小説だ。タイトルの通り、1949年当時からみた未来である1984年の世界を描いている。

 とある革命によって民主主義が崩壊し、社会主義全体主義が色濃くなった世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアという三つの地域に分断された。本書ではオセアニアが舞台となっており、このオセアニアを支配するのが「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる指導者だ。

 この本をどういう視点で語ればいいのだろうか。僕の頭に浮かんだは「監視」「嘘」「言語」という三つのキーワードだ。

 まずは監視について。本書の中で「テレスクリーン」という装置が出てくる。これは屋内だろうが屋外だろうがどこにでも設置されており人々を視覚的、聴覚的に監視している。政府にとって不利益な言動をとらないか住人は常に監視されているのだ。プライバシーや個人情報という概念はない。そして誰もこのことに異を唱えない。なぜならそんなことをしたら党に消されてしまうからだ。そして監視しているのはテレスクリーンだけではない。人が人を監視している。それも他人だけでなく、子が親を、親が子を監視し、不穏な動きがあれば党に通報する。そんな社会では誰も本音を吐き出すことはできない。監視は物理的に人の動きを制限でき、そして言葉を監視することで思考までも制限できる。思考の制限は一種のマインドコントロールとも言える。権力者にとってマインドコントロールほどほしい能力はないだろう。

 現代にはテレスクリーンのような装置は存在しないが、最近は監視カメラがいたるところに設置されている。これは防犯目的であり、国民を監視するためのものではない。しかし監視という能力は、人を支配する上で非常に強力な武器になる。監視されている側がそれに気づいていようがいまいがおかまいなしに。というよりむしろ監視される側がそれに気づいていなければなお一層その力は増す。本書のように監視されていると分かっていればそれなりに対策もできるが、監視されていることを意識する必要のない現代では、その力は権力を持つ者にとって必要不可欠の能力になっていると思う。

 二つ目のキーワード「嘘」について。一言で「嘘」と書いたが、これは嘘と分かっていながら嘘をつき、嘘をついたことを認識しつつもそれすらも嘘にしてしまうという行為だ。これを本書では「二重思考」と読んでいる。二重思考を本書の言葉で説明するとこうだ。

「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいう」(本書P328より)

 たとえば、

「都合が悪くなった事実は全て忘れること、その後で、それが再び必要となった場合には、必要な間だけ、忘却の中から呼び戻すこと、客観的現実の存在を否定すること、そしてその間ずっと、自分の否定した現実を考慮に入れておくこと」(本書P329より)

 または

「党の規律が要求するのであれば、黒は白と言いきることのできる心からの忠誠心を意味する。しかしそれはまた、黒を白と信じ込む能力でもあり、更には、黒は白だと知っている能力であり、かつてはその逆を信じていた事実を忘れてしまう能力のことである」(本書P325より)

ということだ。

 政治家の発言や行動をイメージしてもらえればわかりやすい。党の規律に従うために、それが明らかに間違いである、嘘であると分かっていてもそれを認めない。しかし、それが間違いであることが明白なことは十分に理解している。ただひたすらに「記憶にございません」だの「書類が残っていません」だの言って自分の正当性を主張する。これも一種の権力によるマインドコントロールといえる。白を黒と思い込む、思い込ませる。そして白が黒になり、記録される。

 会社にもこういう人間はいる。二重思考を使う人間に多いのが楽観主義者だ。仕事のトラブルやピンチを重くとらえずになんとかなると軽く考える人がこの二重思考を使っているように思う。つまり仕事の仕方に客観性がないのだ。こういう人間と仕事をすると本当に疲れるし、二重思考を平気で使うその神経に恐怖を感じる。

 三つ目のキーワード「言葉」はこの小説で僕がもっとも関心を抱いたテーマだ。本書の舞台であるオセアニアでは、かつては英語が公用語だった。だったという過去形の通り、英語は「オールドスピーク」と呼ばれ今は「ニュースピーク」という英語を元に開発された言語が公用語となっている。とはいえ、このニュースピークはまだ完成しておらず、人々の多くがまだ英語を使っている。

 ニュースピークの特徴はその語彙の少なさにある。本書の中でニュースピークの辞書の編纂に関わっている人物がこう言っている。

「おそらく君はわれわれの主たる職務が新語の発明だと思っているだろう。ところがどっこい、われわれは言葉を破壊しているんだ」(本書P80より)

 この台詞にあるように、ニュースピークは様々な意味を持つ言葉を一語に集約したり、略語を用いたりすることでこれまで使っていた言葉を廃棄し、できるだけ少ない語数で足るような言語になっている。たとえば「寒い」の反対は「暖かい」だが、ニュースピークでは「非寒い」となる。つまり語数を減らすとともに、言葉の「意味」や「概念」を減らしているのだ。

「必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙句、忘れられることになるだろう」(本書P82より)

 なぜニュースピークなる新言語が開発されているのか、それは思考の範囲を狭めることにある。言葉の持つ意味を減らし、限定的にすることで、人の思考の範囲さえも限定的にし、さらに思考を表現する言葉をなくすことで党に背く思考そのものをなくしてしまおうというわけだ。

 これはいったいどういう感覚だろうか。例えば日本の公用語が英語になったとする。このとき「おつかれさま」という日本語を表現する英語はないので仕事終わりに同僚に書ける言葉はすべて「グッバイ」に置き換わってしまう。それで何か不自由を感じることはないだろう。だが「おつかれさま」という言葉特有の概念、相手をおもいやる気持ちという感覚はなくなってしまう。とくに日本語は言語の中でも表現の幅が広い言語だ。その幅が狭まることで思想や思考に影響を与えることは容易に想像できる。

 こんなニュースピークみたいなことが起こるはずがないと誰もが思うだろう。もちろん、誰か特定の人物が主導して言語を無理矢理に変えるということは起こらないかもしれないが、人類自身の手によっていつの間にか言語が変化し、その結果なくなっていく感覚、思想、思考などはあるのではないだろうか。例えば学校で学んだ古典がそうだ。「をかし」など当時は一般的に使われていた(もちろん口語ではなく文語ではあるが)。その「をかし」という感覚と、現代の日本語訳である「趣がある」という言葉の感覚には微妙に違いがあるはずだ。それは言葉では説明できない感覚的なものだと思う。このように言葉が変わっていくことで、人の美意識や価値観までも変わっていく。

 ニュースピークでは略語もよく使われる。略語は現代でもよく使われている。言葉を略すことであやふやだった意味が明確になることがある。しかし、言葉を省略することは良いことばかりではない。とくに名称の省略について本書にはこう書いてある。

「名称を省略形にすると、元の名称にまとわりついていた連想の大部分をそぎ落とすことによって、その意味を限定し、また巧妙に変えることになると看守されたのである。」(本書P470より)

 例えば「イクメン」という言葉がある。これは「育児に協力的な夫」のことを指す言葉として使われるが、育児に協力的な夫をただ「イクメン」という四文字で呼んでしまって良いものだろうか。そもそも育児に協力的な夫とはどのような夫のことか。「イクメン」という略語に落とし込んだときに、夫が育児に関わるうえでの様々な問題点をそぎおとし、理想的な夫という限定的な意味だけが一人歩きし始める。そしてその限定的な意味を人に強要する。ほかにも「草食男子」「負け組」や「サブカル」「オタク」なんかもそうだろう。

 言葉は永遠に変化しないというのは幻想であることは分かっている。しかしこれだけ情報が氾濫している時代に言葉がないがしろにされているような気がしてならない。若者は「りょうかい」のことを「り」とひとことで表現する。これを言葉というだろうか。思考というだろうか。これは記号じゃないだろうか。本書の中ではビッグ・ブラザーの指導の下で言葉の破壊が行われているが、現代では僕たち自身で言葉を破壊し自ら思考の範囲を狭めているような気がする。あるいは考えることを面倒くさがる人種が増えてきているのかもしれない。何事もわかりやすい方がいいが、人間はそれほど単純ではないはずだ。

 AIが書いた小説か人間が書いた小説か見分けがつかなくなる時代がくるなんて言われるが、それはAIの進化ではなく、人間の退化だと思っている。人間が人の言葉を理解できなくなるときが来るのだろうか。そして人が話した言葉をAIに翻訳してもらう時代が来るのだろうか。言葉がその通りの意味しかもたなくなり、行間を読む、人の心を推し量るという感覚がなくなる時代がそこまで来ているような気がしてならない。

 一見複雑に見える今、人は単純になりつつあるのではないだろうか。スマホやパソコンなどのツールにより、自分の行動範囲は限られるようになった。それはすなわち思考範囲も限定的になったと同じだ。国のこと、政治のこと、自分に関係のないことは知らなくても生きていける。悩むことはあっても考えながら生きる必要のない時代。人の真似ばかりしてこれが自分の人生と思い込んでいる人々が多数いる時代。

 言葉に関心を持たず考えることをやめ本能だけで生きる人間をコントロールするのはたやすい。

 だらだらと書いてしまったが、これら三つのキーワードはいずれも権力による支配を語るうえで必要不可欠な三つだと思った。それは今も昔も変わらず権力を手に入れた人たちは我々を監視し、見え透いた嘘を平気でつき、そして言葉巧みに自分たちの都合の良い方向へと導く。しかし、権力のその先に何があるのだろうか。国や地域を支配し、自分の思い通りの政治を行うことで誰が幸せになるのだろうか。これは国という単位だけでなく、社会、会社の中でも同じことが言える。

 人が人としての喜びを感じるのが権力を握たときのみだとしたらなんとも悲しい。しかし、現代の成功はお金と権力で語られる。これはどんなに生き方や価値観が多様化しても変わらない気がする。幸せに生きるということと権力が強く結びついてしまう世界はとても生きにくい。

 権力とは何か、権力者はなぜ権力を欲しがるのか、人はなぜトップを目指すのか、そこに答えはない。権力とお金は「ただ欲しい」ものなのだろう。これは人類が滅亡するまで続く。