本とゲームとサウナとうんち

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創作 お題「ききただす」 タイトル:屋上

ききただす

【聞(き)糺す】

疑問点などを当事者に直接聞いて確かめる。

新明解 国語辞典 第七版 P333

 

***

受験勉強の緊張感に慣れはじめ、夏ということもありクラスには少しだけ生ぬるい風が漂っていた。といっても、僕はそんな風を感じて何かしらの行動を起こせるようなグループに属しておらず、ましてやそんな行動を一緒に起こす友達さえいなかった。高校に入学してから一度も四季というものを意識したことがなく、気づけば高三の夏になっていた。その夏も去年と一昨年と変わらない夏になるはずだった。

***

「今夜、屋上で花火しない?」

昼休みの教室は騒がしく、聞き耳を立てないと誰が何の話しをしているのか分からない。そもそも、普段はクラスの誰が何を話しているかなんて、気にならないはずなのに、その会話だけははっきりと聞こえていた。校舎の屋上で花火をするなんて馬鹿げたことを、と思ったが、想像すると予想以上に楽しそうで、僕はその会話に必死に耳を傾けた。僕もしたい。屋上で花火がしたい。誰かとしたいと言うよりも、ただ屋上で花火をしてみたかった。もしかしたら花火よりも屋上に魅力を感じていたのかもしれない。耳には「屋上」という言葉がしっかりと残っていた。いつも地面ばかり見ていた。空に近い場所である屋上に行ってみたい、なんて心の中でつぶやいた自分が恥ずかしかった。話し声のする方向に視線を向けると、数人の男女が輪になっていた。中には飛び上がって喜んでいる女子もいる。

「いいねいいね」

「けど、どうやって屋上行くの?」

必死に集団の方向に耳を集中させて、屋上に行く方法を聞き出そうとした。そこでチャイムがなった。我に返った僕は夜に校舎の屋上に登るという子供じみた発想に自分自身であきれていた。そして、そんなことにあきれてしまう自分に腹が立っていた。

いつ屋上で花火をするのか、日時だけでも聞き出そうと教室では出来るだけその集団のそばにいるようにした。八月十五日、お盆の午後八時に花火をするという情報を聞き出した。僕も一緒に行っていいかな、なんていうつもりはない。彼らがどんな方法で屋上に行くのかさえ分かればいいのだ。花火が終わったあとにそれを真似て屋上に行けばいい。

***

正門をまたいだすぐのところにある小さな時計台は七時をさしていた。時計台を両側から挟むように西校舎と東校舎が建っている。ついさっきまで生徒が入っていた校舎はまだどこかぬくもりのようなものを残していた。三階建ての校舎の向こうに見える空にはまだ少し太陽の光が残っているようだった。星はまばらで、見頃にはまだ時間が必要だろう。

自転車が一台もない駐輪場はこんなにも広いのか。駐輪場と校舎を覗くことができる焼却炉の陰にしゃがんで彼らが来るのを待った。夏休みで使われていないはずの焼却炉からは煤の臭いがした。

八時を過ぎた頃、集団が集まってきた。悪びれた様子は少しもなく、ときに奇声を発していた。その奇声はいかにも夏らしく、僕のそばを通り過ぎた後もその勢いは衰えず、校舎の壁を何度も反射して僕のところに届いた。こだまする奇声にまぎれて僕も思いっきり意味の分からない言葉を叫びたい衝動に駆られたがぐっとこらえた。

集団は駐輪場にある倉庫からはしごを取り出すと、校舎の二階のベランダにかけた。二階のベランダには手を伸ばしてやっと届く位置に小さなはしごが付いており、集団は一人ずつ屋上の暗闇へと消えていった。登り方さえ分かれば、集団に興味はない。僕は再び焼却炉の陰に戻り煤の臭いをかぎながら彼らが帰るのを待った。空を見上げると、星がはっきりと見えた。僕は空という言葉を頭の中にもう一度思い浮かべた。夜の空だから、夜空のはずだが、頭に浮かんだのは夜空ではなく空だった。屋上から集団の奇声と花火のはぜる音が聞こえた。僕のいる場所から屋上までの距離はそれほど離れていないのに、とても遠くに聞こえた。

***

九時頃に音が止み、集団が駐輪場に戻ってきた。酒が入っているのか、興奮した様子で自転車に乗り帰って行く。集団の声が完全に聞こえなくなるまで待ち、倉庫に向かった。さびた扉をゆっくりと開けるとそこにあるはずのはしごがなかった。そういえば、集団は帰るときにはしごを持っていなかったような気がする。校舎に向かうと、はしごはベランダにかかったままだった。明日先生に見つかって屋上で花火をしたこと、酒を飲んだことがばれたらどうするつもりなのだろうか。あきれると同時にそんな考え方ができる彼らをうらやましく思った。そしてうらやましいと思ってしまう自分に腹が立った。

***

屋上には花火の残骸とたばこの吸い殻、酎ハイの空き缶が転がっていた。まだ少し火薬の匂いが残っている。ところどころ花火で焦げ黒くなっている地面は、コンクリートではなく緑色のゴムのような素材でできていた。深呼吸をしながらゆっくりと見回す。真っ暗な校舎。ところどころにある電灯。校庭の方に顔を向けたが、何も見えなかった。軽い。生徒がいない、動いているものが何もない空っぽの校舎は今にも浮いてしまいそうだ。僕は校舎が浮いても大丈夫なように仰向けになり空を見上げた。視界に入るのは空と星だけ。人工物は何もない。目の焦点が合わなくなってくる。まるで空を飛んでいるような浮遊感がある。もしかして校舎が本当に浮いてしまったんじゃないだろうか。はっとして勢いよく体を起こしたときだった。どこかからバイブ音が鳴った。屋上の隅に小さく緑色に光りながら揺れているものがある。すぐに携帯電話だと分かった。おそらく先ほどの集団の誰かが忘れて帰ったのだろう。ところどころハートや星のシールでデコられた携帯にはどこか控えめな雰囲気があった。集団の中にいた女子の顔を思い浮かべてみる。きつめの化粧と香水をした女子ばかりの中に少し地味な女子がいた。名前は田中。あまりの普通すぎる名字だから覚えていた。携帯はまだ揺れている。携帯をなくした田中が集団の誰かに頼んで電話をかけているのだろう。出たほうがいいだろうか。出てしまうと僕がここにいることがばれてしまう。こんなに鳴らしていると言うことはもうじき田中がここに戻ってきてしまうかもしれない。僕は携帯をその場に置き、戻ろうとした。そのときだった。背後で「あ」という声が聞こえた。振り返ると、屋上の縁から突き出た田中の顔がこっちを見ていた。

「誰?」

こんな状況で「誰?」と強気に言える田中は見た目は控えめでも性格はそうではないのかもしれない。まるで映画の刑事が犯人を逃がすまいとするように、顔はこちらに向けたままゆっくりとはしごを登ってきた。

「なんだ、園田か」

驚いた。田中が僕の名前、正確には名字を知っていたとは。
「何してんの?」

まさか「何してんの?」と聞かれるなんて想定していなかった僕は言葉に詰まってしまった。

「いや、別に、星、見ようと思って」

意味不明な返しにも関わらず田中は顔色ひとつ変えず、空を見上げた。

「あ、星だ」

つられて僕も見上げた。

「園田って、なんかロマンチストな雰囲気あるもんね」

「え?」

そんなことは今まで一度も言われたことはなかった。これは褒め言葉なのだろうか。急に鼓動が早くなる。

「いっつも外ばっかり見てるじゃん」

たしかにそうだが、それだけでロマンチストとは。

「まあ、何考えてるかわかんないからちょっと怖いけど」

田中はふふふと笑う。

「それ、私のケータイ」

田中は僕の手を指さした。てっきり元の場所に戻したとばかり思っていた携帯はまだ僕の手の中にあった。「ちょっとなんであんたが持ってんの?」「触らないで」「気持ち悪いんですけど」「中見たでしょ?サイテー」ほかにも田中の口から発せられるであろう罵詈雑言とはいかないまでもそれと同様の台詞が僕の頭の中で駆け巡った。

「ありがとう」

「あ、いや、別に何もしてないし」

まさか、お礼を言われるとは思っていなかった僕は、僕だけが分かる一瞬の間、体が固まった。気づくとすぐ目の前に田中がいた。シャンプーのいい香りとほのかにチューハイらしき匂いがする。田中から差し出された手に、指に触れないように携帯を渡した。

「園田ってケータイ持ってないの?」

「持ってないね」

高校入学時に親に携帯を買ってあげようかと言われたが、僕には必要ない気がして断った。本当は少し欲しかったけど、持っていてもむなしいだけのような気がしたのだ。

「じゃあ、お礼にこれあげる」

田中はバッグの中からジュースの感を取り出した。よく見るとレモンチューハイだった。

「ありがとう」

僕が受け取るのと同時に田中は身を翻してはしごに走り寄った。

「じゃあね!ロマンチスト!」

田中は手を振ると、僕が手を振り返すのを見ずにはしごを降りていった。カンカンカン。タタタタタ。ガシャン。シャーシャーシャー。はしごを降りる足音。走る足音。自転車のスタンドを起こす音。自転車が走り去る音。田中の音すべてが耳の奥に響いた。田中が振り返ってもう一度手を振ってくれるかもしれないと思い屋上から見える正門に目をやると、すでに通り過ぎた後だったのか、LEDに照らされた時計台があるだけだった。

***

なんだ、ジュースじゃないか。レモン味と書かれたチューハイはレモンの味ではなく何味かわからないジュースの味がした。田中からもらったチューハイを飲む。田中のどこかの一部を飲んでいるような奇妙な感覚があった。そういえば、あの携帯は本当に田中のだった。見た瞬間に田中のだと分かった自分がなんとなく誇らしかった。今まで感じたことのない興奮が下から僕を押し上げる。というより、何かに興奮するなんてこれが初めてだった。ぬるくなったアルミ缶のぬくもりがよけいにそうさせた。下半身に熱い何かを感じた僕はその場に体育座りをして二口目を口に含んだ。

***

カンカンカン。はしごを登る音がする。田中がまた忘れ物でもしたのだろうか。それとも。何を期待したのか分からない。けれど、その期待を口にするのはあまりにも馬鹿馬鹿しく、あり得なさすぎて少し息を漏らして笑いながらはしごにかけよった。顔を出したのは知らないおじさんだった。

「わっ!」

いきなり現れた僕に驚きはしごから落ちそうになったおじさんはまるで漫画のように両腕をぐるぐると回しバランスを保つとガシャンとはしごにつかまった。たった二口のチューハイで酔っていたのかもしれない。大人が必死に腕を回す仕草が面白く、思わず笑ってしまった。

「こんなところで何やってるんだ!」

はしごを登りながらそう怒鳴ったおじさんは、よく見えると学校の警備員の制服を着ていた。警備員特有の警察のような帽子をかぶっていなかったから分からなかったのだ。普通のおじさんだったらどれだけよかっただろう。制服を見てこれがとてもやばい状況であることを認識した。警備員は屋上を見回した。花火の後、たばこの吸い殻、チューハイの空き缶、そして僕の手に握られたチューハイ。

「名前は?何年何組だ」

怒鳴るように聞かれたからではなく、この状況を僕有利にもっていくことなんて不可能だろうなと一瞬で悟り、何も言うことができなかった。夜に学校に忍び込み、はしごを使って屋上に登り、酒を飲みたばこを吸いながら花火をした生徒なのだ。

***

テレビで見る刑事ドラマの取り調べ室を少し広くしたぐらいの警備員室は西校舎の正門から一番遠いところにあった。
「酒とたばこは黙っといてやる」

その優しさは僕には無意味だった。それなら今ここで起こっているすべてのことを黙っていてもらいたかった。花火もたばこも酒も僕ではない。僕が持っていたチューハイはもらったものだ。そんな説明をして信じてもらえるだろうか。信じてもらうには相当の言葉と、警備員との関係性を築くための相当な時間が必要だろう。この先僕はどうなってしまうのか考えても仕方がない。なぜか手に持ったままだったチューハイを煽った。部屋の隅に小さなモニターが見えた。白黒の映像が映し出されている。すぐに正門だと分かった。監視カメラだ。この学校には監視カメラがあったのだ。一筋の光が見えた。監視カメラなら、ビニール袋を持った集団の映像が残っているはずだ。彼らが花火と酒を持ち込んだ証拠になる。

「あの、ちょっといいですか」

「なんだ」

何かの書類に書き込んでいる警備員は顔も上げずに言った。
「花火も酒も、僕じゃないんです」

「今さら何言ってんだ」

「監視カメラ見てもらえれば分かると思うんですけど、僕と同じクラスの集団が大きなビニール袋を持って学校に入ることろが映ってると思うんです」

警備員は顔を上げると黙ってモニターの前に行き、ビデオデッキのような黒い箱を操作し始めた。迷慣れた手つきでボタンを押しつまみを回した。機械には疎い年齢かと思っていたが、この警備員は見た目よりもずっと若いのかもしれない。何の変化もない正門の映像にノイズが混ざる。右上に表示された時間だけが動き巻き戻っていく。

「あ」

正門を一台の自転車が通り過ぎ校舎へと入っていった。警備員はボタンを操作し、自転車が通り過ぎる瞬間で止め、ゆっくりと振り向いた。

「これ、おまえだろ」

モニターに近づいて見ると、確かに僕だった。

「僕が映ってるってことは、あの集団も映ってるはずです」

警備員は黙ってまたつまみを回した。どんなに巻き戻っても集団は映ってなかった。

「仮にその集団がいたとして、校舎に入ってきたのはおまえの後か?それとも前か?」

「あ」

集団が校舎に入ってきたのは僕の後だ。つまり、監視カメラに映っているとしたら、巻き戻した場合、彼らが先にモニターに現れるはずだ。いや、もう一つ、出入り口がある。
「裏門に切り替えってできますか」

「裏門にはカメラはついてない。正門だけだ」

警備員は操作をやめてため息をついた。

「酒とたばこは黙っといてやるから」

同じ事を言ってまた書類に何かを書き始めた。奴らは正門にカメラがあることを知っていたのか。それとも偶然か。おそらく知っていたのだろう。なぜかはめられた気がした。見つかったときは言い訳をするつもりはなかったが、監視カメラという小さな出口を見つけたことでこの状況をなんとかして変えたいと思うようになっていた。

「何時頃から屋上にいたんだ」

「九時ぐらいです」

僕は嘘をついた。けれど、警備員は何も言わずに書類に書き込んでいる。おかしい。集団はかなり大声を出して騒いでいた。花火の音もしていた。地上にいた僕にはっきりと聞こえていたのだ。そもそも九時にはもう花火は終わっている。もし警備員が巡回していたら八時頃から鳴っていた音や声が聞こえたはず。そして九時ぐらいから僕が屋上にいたという嘘に気づくはずだ。もしかするとこの警備員は仕事をさぼっていたのかもしれない。

「なんでそんなこと聞くんですか。巡回中に屋上から花火の音聞こえませんでした?」

警備員の手が一瞬止まり、また動きだした。動揺を読み取ろうと警備員の後ろ姿をじっと見つめた。帽子をかぶっていない。彼の頭には警備員ならかぶっているはずの帽子がなく、寝癖のように髪がはねていた。

「寝てました?」

また手が止まった。

「寝てねーよ」

「じゃあなんで花火の音が聞こえなかったんですか?」

「おまえさ、自分の立場わかってる? 酒とたばこ、担任に報告するからな」

もうどうでもよくなっていた。屋上に登ったことがばれようが、酒を飲んだことがばれようが、集団がやったことを自分のせいにされようが、どうでもよくなっていた。

「なんで、屋上に登ろうと思ったんですか?」

警備員はゆっくりと息を吸い、一気に吐き出した。お手本のような溜息だ。

「屋上に人がいるって電話があったんだよ」

「どこにですか」

「ここにだよ。高校の電話が鳴って、屋上に人がいますって」

「誰が電話してきたんですか」

「知らん。女の人の声で、それだけ言うと電話が切れた」

「花火の音がうるさいっていう苦情ではなく?」

「屋上に人がいますってだけだった。ちょっと気味が悪かったけど、行ってみたらおまえがいた」

屋上に人がいることを知っている女。田中しかいない。なんのために?そんなことをして何になる?手を振ってはしごとを降りる田中がどんな顔をしていたのか思い出せない。笑っていた?どんな笑顔?学校に電話をしてすべて俺がやったことにしたのか。電話なんかする必要があったのか。そのまま帰っても集団が屋上で酒を飲みながら花火をしたことはばれないはず。それなのにわざわざ電話をした。俺をはめるために。何の意味があるんだ。何の意味もないのかもしれない。

警備員室のドアが開いた。担任と両親の三人が立っていた。屋上から星を見たかったなんて言えなかった。両親の説教をただ黙って聞き、なぜこんなことをしたのかという担任の問い詰めには「すいませんでした」とだけ答えた。自分がさぼっていたことがばれるのがいやだったのか、僕の味方に回った警備員は酒のことは担任にも両親にも伏せ、当時の状況を説明した。

「まあ、彼も反省しているようなので、もういいんじゃないですか。そういう年頃ですからね」

何を納得したのか、大人四人はうんうんとうなづいていた。
***

僕は何の処分もなく、翌日いつも通り登校した。田中は昨日のことなんてなかったかのように集団の中で笑っていた。集団の連中も誰一人僕のことを見ない。田中は僕のことを誰にも話していないのだろうか。なぜ話さないのだろうか。じっとにらむように見つめたが僕の視線は田中に届く前に教室の空気に薄められ霧のように散った。僕の中で答えは出ていた。電話をしたのは田中だ。なぜそんなことをしたのか理由を聞きたかった。聞いてどうなるわけでもない。ただ聞きたかった。学校内で田中と二人きりになるのは難しい。僕は思いきって田中の下駄箱に電話番号を書いた紙を入れようかと思ったが、電話に親が出たらめんどうなことになりそうだ。

***

携帯が欲しいというと、両親は何も言わずに買ってくれた。もともと会話が多いほうではなかった。あの一件以来、さらに家族の会話は少なくなっていた。

***

「この間の屋上のことで聞きたいことがある。電話ください。携帯買いました。園田」

携帯番号を書き添えた小さな紙をポケットに忍ばせて一週間が過ぎた。下駄箱に入れても机に入れてもほかの誰かに見られてしまう可能がある。田中に紙を直接渡すチャンスは一日一回しかなかった。朝の駐輪場だ。いつもより一時間早い七時に登校し駐輪場で田中が来るのを待った。誰もいない駐輪場にいると二週間ほど前のことを思い出す。夜と違い朝の校舎はとても無機質に見える。あの事件のことなんてもうとっくに忘れている。駐輪場のそばにある倉庫に行くと扉に南京錠で鍵がかけられていた。七時半頃からちらほらと生徒が登校し始め、徐々に学校全体が動きだす。僕はまだ止まったままだ。七時五十分だった。大勢の生徒の中から田中を見つけた。田中はいつも一人で登校する。周辺視野でほかの生徒を避けながら田中だけを見て少しづつ近づく。

「田中」

呼吸が止まっていたことに気づいたのは田中を呼んだときだった。

「なに?」

いつか呼び止められることを予想していたかのような速さで振り返るとその場に立ち止まり表情を変えずに僕を見た。歩きながら渡そうと思っていた僕にとって田中が立ち止まったのは予想外だった。川に埋まった大きな石をするりとよけて流れる川のように大勢の生徒が僕と田中をちらちら見ながらすり抜けて下駄箱へと向かう。呼吸がまた止まった。紙を渡すだけでいい。何も言う必要はない。そう自分に言い聞かせ肺に溜まったままの空気をゆっくりとはきながら折りたたんだ紙を田中の前に差し出した。通り過ぎる生徒たちの視線が僕の手元に刺さる。そういう手紙ではないことを周りにも田中にも示すために僕は眉間にしわを寄せ、まだはき切っていない空気を強引に吸い込み胸を張った。

「は?」

田中は紙を受け取るとうっとうしそうに雑な手つきで開いた。まるで漫画のワンシーンのように「ぷっ」と吹き出した。

「警備員に見つかんなかった?」

「なんで電話なんかしたんだ?」

「次の日普通に学校に来てたよね?」

「正門に監視カメラがあるって知ったのか?」

「あの状況なら停学になってもおかしくないと思うけど」

「俺をはめて何がおもしろいんだよ」

「ねえねえ、なんで停学くらわなかったの?」

田中はわざと大きな声で聞くと、手で口と鼻を覆い笑いをこらえ「ぐぐぐ」と下品な音を立てた。

「まあいいや、で、なんだっけ?」

田中はもう一度紙を見た。

「ここに電話すればいいの?」

僕は田中から紙を取り上げた。

「いや、もういい」

田中はとくに何も考えていなかった。警備員に連絡をすれば僕が窮地に陥る。ただ、それだけだ。その後のことには興味がない。というより田中の頭の中である程度予想できていたのだ。ただ、なぜ僕が停学にならなかったのか、それだけが予想外だった。なぜ僕を停学にしたかったのか。別に「僕」は関係ない。ただそこに、屋上にたまたま僕がいたからだ。田中の目に僕は映っていなかった。

「あ」

いつの間にか下駄箱に歩き始めていた田中が振り返った。

「田中って呼び捨てにするの、やめてね」

体がぐらっと揺れた。誰かが僕の肩に思いっきりぶつかった。