本とゲームとサウナとうんち

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創作「階段」


 いつもより三十分早く起きた。お母さんとお父さんは不思議そうにしていたけれど「今日から三年生だもんね」と僕の早起きと三年生になることを当然のように結びつけて考えているようだった。たしかに、僕が三十分早起きをしたことと僕が今日から三年生になることとは全く関係がないわけじゃない。
 
 いつもの通学路に小学生は一人もいなかった。サラリーマンやOLといった大人たちばかりが黙々と歩いている。音もなくずんずんと前に進むその姿はまるで早送りをしているかのようだ。大人たちの歩く波に飛び込んだ。徒競走ではいつもビリかビリから二番目の僕だけど、今日は自然と彼らの歩くスピードに飲まれて早足になっていた。僕の気持ちが急いていたせいもあるのかもしれない。子どもたちの話し声はどこにもなく、僕の耳にはコツコツという大人たちの足音だけが重なって聞こえた。どの音がどの大人の足音かはわからない。下を見て歩く僕を足音だけがどんどん追い越していく。僕も同じように道路にかかとをたたきつけながら歩いてみたけれど、コツコツという音は鳴らなかった。

 まだ誰も登校していない校舎は人の重みがないからか少し膨らんでいるように見えた。玄関に並んだ下駄箱はどれも空っぽで、一人で靴を脱ぐ僕を監視しているようだった。それでも僕はいつものようにみなみちゃんの下駄箱を見ることだけはやめられなかった。

 バタンッっと大きな音がした。これ以上開くと目玉が落ちてしまうんじゃないかと不安になるほど僕の目は見開いた。一瞬にして体が動かなくなり、このまま下駄箱に食べられてしまうと思った瞬間、もう一度バタンッと音がした。もう一度バタンッ。そしてもう一度バタンッ。その音は規則的に少しずつ近づいてきた。何度も聞こえるその音に慣れていくにつれて僕の体の緊張もほどけていった。よく聞くとバタンッの前に小さくガーと聞こえる。ガー、バタンッ。ガー、バタンッ。

 体の緊張を完全にほどき校舎に入ると、誰かが廊下に面して並んだ窓を一つずつ開けながら近づいてくるのが見えた。この学校にいる大人の中でジャージを着ているのは三原先生だけだ。もしジャージじゃなかったら顔を見ても誰か分からなかったかもしれない。生徒たちというより、主に女子たちに人気の清潔感のある先生の顔には、黒か灰色かわからないヒゲがびっしりとこびりついていた。ひげだけではない。ヒゲだけではない。いつもは熱血で動きに無駄のない三原先生が、手をぶらぶらと振り、足の運びもふらふらとだるそうに歩くいている姿も見てはいけないものを見てしまったような気がした。誰にも会わずに教室まで行きたかった僕は隠れるように身をかがめて素早く廊下を横切ろうとした。

「きゃあああ」

 まるでサスペンスドラマで女性が犯人に襲われたときのような叫び声が校舎中に響いた。僕は身をかがめたまま体を止めて、顔だけを声のする方へ向けた。そこには尻餅をついた三原先生がいた。

「脅かすなよ」

顔がはっきりとわかる距離まで歩いてきた三原先生の声はいつもより低く少しイラついているようだった。

「すいません」

「幽霊かと思ったぞ。って朝っぱらから幽霊なんて出るわけないか」

 イラつきが生徒にバレるのを隠すように急におどけてみせた。

「つーか……あれ?……なんでこんな早いの?」

 まさか先生に会うなんて思ってもいなかった僕は、なんて答えればいいのか、本当のことを言うべきなのか口ごもってしまった。

「あ、そうか、今日から三年生だからか。そうかそうか、気合い入れて早く来たわけね」

 勝手に納得してくれて僕はほっとした。これで会話は終わったと思っていたら、今度はおまえが話す番だぞとでも言いたげに先生は僕の顔を見ながら何度もうなづいていた。こういうときに何を話せばいいんだろう。友達ともろくに話が出来ない僕が、そんなに話したこともない先生と何かを話すなんて無理だ。というより、たぶん、三原先生と話すのは今日が初めてな気がする。そして、先生はたぶん僕の名前を知らない。

「よし、じゃあ先生も気合い入れてがんばるかな」

 大きくうなずくと、さっきとは別人のように背筋を伸ばして職員室へと向かった。一人になりたかった僕は先生が職員室に入るまで二階へと続く階段の前に立ち、先生の背中を眺めていた。職員室の扉に手をかけた先生は何かに気づき急に振り返った。

「そうだ、教室、間違えんなよ」

 僕はどきっとした。先生が急に振り返ったことではなく、その言葉に、今日早く登校した理由を見破られたような気がしたからだ。さっきの位置から一歩も動いていない僕を不思議に思うことなく、先生は職員室へと入っていった。

 間違えるはずがない。うっかり二年生の教室に入るなんて。僕は一年生と二年生の教室の間にある階段を見上げた。
 見上げると階段の踊り場の窓から差し込む光がまぶしかった。一階からいつもこの光を見ていた。光の先に何があるのか、どんな世界が待っているのかいつもわくわくしながら見ていた。と同時にその光は僕の侵入を防ぐ結界のようにも思えた。階段を上ってはいけない、二階に行ってはいけないなんて校則はなかった。同級生の中には平気で階段を上り三年生や四年生の教室に遊びに行く奴もいた。彼らが階段を上る姿と上級生が上る姿は全然違った。光と重なり輪郭だけになった上級生の姿はとてもつなく大きく見えた。

 今日から三年生だ。上級生のようにこの階段を上ることができる。僕は一人で上りたかった。誰にも邪魔されずにこの光に立ち向かいたかった。三原先生という邪魔をなんとかクリアし僕はなんとか一人で階段の下に立つという最初の目標をクリアした。

 一段目に右足を乗せた。次に左を足を出した瞬間、僕は手すりを掴んだ。思っていたよりも傾斜がきつい。ゆっくりゆっくりと足を前へ上へ運ぶ。上を見ると光を遮るものは何もない。その光までの距離がとてもつなく長く思えた。僕は思いきって手すりから手を離し、階段のど真ん中を歩くと一歩ずつ確実に光へと近づいているのがわかった。

 踊り場は思っていたよりも狭く、暗くじめじめとした秘密基地のようだ。見下ろすと、この間まで使っていた廊下が一目で見渡せる。三原先生とあそこに立って話しをしていたのかと思うと、さっきまでの自分がいろんな意味でとても小さく思え、今ならもっと三原先生とうまく話せるような気がする。「先生、僕の名前知りませんよねえ」なんてへらへらしながら話せそうな気がした。

 僕は光の中にいた。もうまぶしくはない。踊り場の窓から見る校庭は僕が思っていた正方形ではなく長方形だった。対角線上に伸びた百メートル走用の白線は全然まっすぐではなかった。今なら二十秒ぐらいで走れそうだ。踊り場の光の中を抜け、二階の廊下へ足を踏み入れた。

 二階の廊下の窓から校門が見下ろせる。あんなに朝早く家を出たはずなのに、すでに生徒たちが登校し始めていた。上から見ると誰が何年生かわからない。みんな子どもだ。

 ぼんやりと焦点が合わなくなった僕の視線が一人の女の子にぴたっと合う。みなみちゃんだ。いつも同じ女の子二人と一緒に登校する。その二人の名前を僕は知らない。みなみちゃんが学校の敷地に一歩入ると男子女子問わずみんながみなみちゃんに駆け寄っていく。僕はそれを見てたまになぜか憎らしく感じることもある。けれど、そんな気持ちを抱くことは僕には許されない。僕はみなみちゃんには逆らえないのだ。もしみなみちゃんに二階の窓から飛び降りろと言われたら、僕は飛び降りるだろう。そんなことはしたくない。けれどそうするしかないのだ。もちろん、みなみちゃんがそんなことをいう確率は限りなくゼロに近い。

 友達の顔も名前もまだはっきりとは覚えていない入学して間もない頃だった。家だとあんなに平気でうんこができるのに、学校だとどうしてできないんだろう。こっそりうんこをする隙をうかがっていたけれどなかなかタイミングがつかめずひたすら我慢していた。僕はまだ自分の限界を知らなかったし、うんこをあんなに我慢するとどうなるのか想像する力もなかった。焦りや危機感もなく、気づいたら漏らしていた。強烈な臭いが僕のお尻から立ち上りまたたくまに教室に広がった。

「おい、こいつうんこの臭いがするぞ」

 四十五分の昼休みを僕はただトイレの前でうろうろして過ごしてしまった。昼休みはみんな校庭か体育館で遊ぶのかと思っていたらけっこうトイレに行く人が多くそのまま掃除の時間になり、僕は掃除当番である教室に戻るしかなかったのだ。そして、やばいと思ったときにはもう出てしまっていた。臭いだけなら逃げられると思っていた僕が甘かった。一人の男子が僕のお尻をかいであっけなくバレてしまった。僕にとって学校でうんこを漏らすなんて初めての体験だったし、教室にいた五人の男子にとっても学校でうんこを漏らした人を見るのは初めての体験だったに違いない。

 終わった。僕はうんこマンというあだなをつけられて小学生生活を送るのだ。みんな僕の名前を覚えることなくうんこマンという名前で六年間を過ごすのだ。そう思ったときだった。

「やめなよ」

 一人の女の子が険しい顔で僕たちを見ていた。みなみちゃんはおそらく僕がほかの男子にいじめられているとでも
思ったのだろう。

「何もしてねえよ」

 男子なら誰だってみなみちゃんには嫌われたくない。まるで始めからそこに僕なんていなかったかのように、みんなの興味はすでにみなみちゃんに向かっていた。僕はその隙にトイレに駆け込んだ。パンツに少しだけ付いたうんこは拭いて取れないこともない。それよりもあの場を抜け出せたことにほっとしていた。もしみなみちゃんがあの場に現れなかったら、僕はどうなっていただろう。この気持ちはありがとうでは表現できない。みなみちゃんが僕のうんこのことを知っていたかどうかわからない。「あ、うんこもらしちゃったの?」なんてみなみちゃんが言っていたら僕の小学校生活はもっと悲惨なことになっていたはずだ。絶対にそんなことを言うはずはないけれど、いつかみなみちゃんがそのことを誰かに言ってしまうのではないか。その思いは僕の中にふわふわと漂い、みなみちゃんの笑顔を見ると三回に一回ぐらいはその考えが浮かんでしまうのだ。僕はみなみちゃんに命を救われた感謝と同時に命を預けているような怖さも抱いていた。

 三年生になった今、みなみちゃんはもうそんなことは忘れているかもしれない。今さらお礼を言ったところで何の意味もない。一度もしゃべったことのない名前も知らない男子からいきなりあのときはありがとうなんて言われたら困るだろう。一つ言っておきたいことがある。さっきから当たり前のようにみなみちゃんなんて呼んでいるけれど、僕は一度もみなみちゃんと話しをしたことがない。だからみなみちゃんという言葉を声に出した事も一度もない。もし本当に話す機会があったとして僕は彼女のことをみなみちゃんなんて呼ぶ度胸はない。心の中で慣れ慣れしくみなみちゃんと呼ぶことで、どこかでみなみちゃんに負けていない自分を確認したいだけなのだ。いつかみなみちゃんがこっちをみてしまうのではないかと恐怖を押さえつけて僕はひたすら二階からみなみちゃんを見つめ続けた。

 みなみちゃんから目を離し、教室に入ると、窓から校庭が見渡せた。二階から見る景色は一階とは違う。校庭全体が見渡せて野球部の使うバックネットまで見える。校舎とは反対側にある裏門の向こうには、放課後に高学年がたむろする駄菓子屋も見える。重そうな引き戸と廃墟のような黒壁が、ここからだととても小さく、ただのボロ家にしか見えない。朝なのにすでに数人の高学年が黒壁の前に集まって何かを話している。その姿は、ただでさえ低く見える黒壁よりも低く小さく指でつぶせるほどだった。

 僕は窓を開けて大きく息を吸い込んだ。一、二年生の頃の空気をすべて吐き出し、自分の中の空気を三年生用に入れ替えた。何度も何度も繰り返すと少しずつ体が軽く、大きくなっていく気がした。

 振り返り教室を見るととすでに教室にはほとんどの生徒が登校していた。みんな二年生の頃と同じように、あるいはそれ以上にはしゃいでいる。僕は無意識にみなみちゃんを捜していた。捜さなくても自然に目に入ってくる。それがみなみちゃんだ。僕は思いきって五秒間だけみなみちゃんを見つめることにした。1,2,3,4,5,6。六秒も見つめてしまった。さっきまでのような恐怖心が少しだけ減った気がした。

 放課後の教室がこんなにもわくわくするなんて知らなかった。何をするわけでもない。誰かと話すわけでもない。教室の隅でどこにも焦点を合わせずにただただ立っていた。みんなが何を話しているのか、どうしてはしゃいでいるのかまったくわからない。僕はひとりっぼっちでもその楽しそうな空気をしっかりと吸い込むことが出来た。帰りの会が終わると真っ先に下駄箱に向かっていた僕にとって放課後という言葉は知っていたけれど、放課後という世界を想像したことは一度もなかった。窓の外に目を向けると、サッカー部と野球部と陸上部が器用に狭い校庭を使って走り回っていた。一瞬だけ部活に入ろうと思った自分にびっくりした。どうして放課後に残ったのかよくわからない。何かが変わるような何かが起こるような気がした。そのとき窓にみなみちゃんの背中が映り振り向くと男女数人を連れだって帰ろうとするところだった。ぼくはとっさにランドセルを背負った。

 みなみちゃんたちの後ろを十メートルぐらいの距離を保ちながら歩いた。後をつけているつもりはなく、僕はただ自分の家に向かっていただけで、その先にみなみちゃんたちがいるだけだと思い込んだ。右に曲がれば僕の家という交差点で、真っ直ぐ進むみなみちゃんたちの背中を見て、僕は迷わずその後を追った。

 みなみちゃんたちが辿り着いたのは交差点から十分ほど歩いたところにあるずっと昔に一度だけお父さんときたことのある空き地だった。僕はまるでさっきからそこにいたかのような空気感を出してみなみちゃんたちの集団に一歩近づいた。「あれ、おまえ家こっちじゃないよな」と言われたらどうしようかと思ったけれど、そんなことを言う人は誰もいなかった。そもそも誰も僕がそこにいることに気づいていないようだった。いきなりじゃんけんが始まり僕は慌てて輪の中に入った。すっと僕の前に立っていた男子が僕のために場所を空けてくれた。僕に目を向ける者も話しかける者もいなかったけれど、存在は意識してもらえていた。

 輪に入ると思ったよりも多くの人たちがいた。十人はいただろうか。僕は全員の顔と名前を知っていた。じゃんけんが始まったとき僕ははっとした。これはいったい何のじゃんけんなんだろうか。かくれんぼならまだいい。おにごっこならどうしよう。もし鬼になってしまったらずっと鬼のままかもしれない。十人もいるとなかなか鬼が決まらない。一人抜け、そしてまた一人抜ける。そして僕は最後の一人になった。

「どっちにする?」

 リーダー格の男の子が僕に聞いた。つまり、かくれんぼかおにごっこか、ということだ。か、と言いかけて僕は口を止めた。ある考えが浮かんだ。

「おにごっこ

 周りの空気が一瞬止まった。おまえ、やれんのか?という視線がものすごいスピードで飛んできた。いくつもの視線が顔に刺さったまま僕は数を数え始めた。十数え終わると僕は走り出した。誰でもよかった。目に付いた男子をとにかく追いかけた。もちろん追いつくはずがない。それでよかったのだ。僕は追いかけながら目の端に必ずみなみちゃんを捉えていた。男子を追いかける振りをして少しずつみなみちゃんに近づいていった。

 とても自然な感じだった。足の遅い男が男子を追いかけ回しなかなか鬼を代われない。そしてたまたま近くにいた女子にターゲットを変更し、タッチする。何の違和感もない。

 少し触れるだけでいい。みなみちゃんに嫌がらせがしたいわけではない。少し触るだけでいいんだ。それだけでみなみちゃんへの恐怖心を消せるような気がした。

 僕は近くにいたみなみちゃんを追いかけた。笑いながら僕に背を向けて逃げていく。なかなか追いつけない。ほかの男子を追いかけ回したせいで僕の体力がほとんどつきかけていた。

 もうあきらめようと思ったそのときだった。みなみちゃんが僕の目の前で転んだのだ。

 僕は足を止めてみなみちゃんを見下ろした。今なら簡単にタッチできる。けれど、転んだ女子にタッチして鬼を代わるなんてやってもいいものだろうか。しかも相手はみなみちゃんだ。それはできない。

「大丈夫?」

 と僕は手を差し出した。その自然な仕草に自分でも驚いた。

「ありがとう」

みなみちゃんは僕の手を取ろうとした。はっとした。みなみちゃんが僕の手を握ろうとしている。タッチするなんかよりももっとすごいことが起ころうとしていた。

「みなみちゃん、逃げて!」

「そいつ、鬼だよ!」

どこからか数人の女子の叫ぶ声が聞こえた。みなみちゃんは素早く自分で立ち上がると僕に背を向けて逃げ出した。僕は二、三歩みなみちゃんの背中を追いかけた後、近くにいた男子にターゲットを変えた。

 僕はその日、一日中鬼をしていた。がむしゃらに走った。こんなに走ったのは人生で初めてだった。走っても走っても全然疲れなかった。