本とゲームとサウナとうんち

ライターが書くブログです。本とゲームとサウナとときどきうんちが出てくるブログです。

うんち小噺「呪文」

 酒を飲んで家に帰り、その日のうちに風呂に入れたためしがない。

 

 目が覚めるとパンツ一枚で寝ていた。

 時計は六時四十五分。そろそろ起きて風呂に入らないと遅刻してしまう。タオルとパンツを取って風呂に入った。

 

 髪を乾かしテレビをつけると画面の左斜め上にあったのは「6:10」という数字。どうやら時計を一時間見間違えて起きたらしい。もう一時間寝るかと思ったが、酒が残った体をなんとかしようと冷蔵庫から水を取り出しパイントグラスに注ぎ二杯立て続けに飲んだ。体に酒が残ったまま電車に乗ってしまうと高確率で貧血を起こしてしまうのだ。三杯目を飲み終えた頃には体もだいぶ落ち着いてきた。

 七時五十分、卵かけごはんを食べいつも通り八時十分に家を出た。

 

 恐れていた貧血は起こらずしっかりと水分補給をした自分を褒めようとしたそのときだった。腹がとんでもない音を立てた。ギュルギュルとシュルシュルとグーが混ざったような複雑な音。もしかしてこれうんちしたくなる感じか、そう思う間もなく素早い便意が尻の奥を襲った。間一髪で括約筋を閉めることに成功したが、それは序盤戦に過ぎなかった。

 

 これぐらいの便意は何度も経験している。いつもそうだ。忘れたころにやってくるそれに油断を見せてはならない。常に尻に意識を集中し幾度となくやってくる便意を封じ込めることに成功していた。しかし、その日はなかなか手強い。そこでやっと気づいた。

 

 水を飲み過ぎたのだ。

 

 貧血と引き替えに得た代償はかなり大きかった。次第に波の間隔が短くなってくる。二日酔いでなければなんてことなかったかもしれないが、まだ少し酒が残る体はいつもよりも弱っていた。それは精神にも影響していたのだろう。もしここでうんちが出てしまったらどうしようとか、駅のホームでうんちしたら駅員さんは助けてくれるだろうかとか、あるまじき光景ばかりが浮かんできた。

 

 気付いた時には言葉にならない言葉が漏れていた。

「あーあーあー」

 どうしていいか分からない。

「あーあーあーあーあーあー」

 無理かもしれない。もたないかもしれない。

「あーああー、あーああー」

 

 このときふと気づいた。意味にならない言葉を発していると不思議と気分が落ち着き便意が収まる気がしたのだ。

「ぷっぷっぷー、ぷっぷっぷー、ぷっぷっぷー、ぷっぷっぷー」

 意味を持たない言葉をつぶやき続けた。できるだけ反復できるような言葉を。

「ぷっぷーぷぺぽ、ぷっぷーぷぺぽ、ぷっぷーぷぺぽ、ぷっぷーぷぺぽ」

 降りる駅まであと二つ。ここを乗り切れば駅のトイレに間に合うはず。トイレに着いたら思いっきり出してやる。うんちをするシーンを想像した。すごくリアルなシーンをイメージしてしまったばっかりに本当にそこでうんちをしてしまいそうになり、慌てて意識を電車の中に引き戻した。

「ぷぷぷぺぽ、ぷぷぷぺぽ、ぷぷぷぺぽ、ぷぷぷぺぽ」

 破裂音がいい。

「ぽっぽこぷー、ぽっぽこぷー、ぽっぽこぷー、ぽっぽこぷー」

 

 なんとかこらえて駅に到着し尻に力が入るようにホームをつま先立ちで歩き駅のトイレに向かった。もちろん、個室が空いているとは限らない、そこは最悪のシナリオも想定しておく必要がある。そして、その最悪のシナリオは現実となる。個室が空いていない。空くのを待つか、会社まで歩くか。あの意味不明な言葉をつぶやけば会社までもつのではないかと歩く決断をした。

「ぷっぷぷぷー、ぺっぺっぺー、ぷっぷぷぷー、ぺっぺっぺー、ぷっぷぷぷー、ぺっぺっぺー」

 会社まで歩いて十分、なんとか耐えてトイレにたどり着くことができた。

 思いっきり尻の穴を開くと出てきたのはほとんどが水だった。やはり朝に飲んだ水のおかげで腹を壊したのだった。水を飲んでいなければ貧血になっていたかもしれないことを考えると、どちらにせよ、今朝のこの試練は乗り越えなければならない試練だったのだろう。

 

 けれど、もしまた同じような状況になったとしても耐えられると思う。呪文を覚えたのだ。うんちを出さない呪文を。

 

「ぷっぷぷぷー、ぺっぺっぺー、ぽっぽこぷー」

書かずにはいられない、それが小説家だ。ー鳩の撃退法(佐藤正午)を読んでー

 佐藤正午は読ませる作家だ。読ませるとはどういうことか。例えるなら「わんこそば」のようなものだ。食べ終わったと思ったら次のそばがお椀に入れられている。そして口に運ぶ、するとまたそばが入れられる。もういいだろうと思うと次の文章が待っている。そして読む。そしてまたこれくらいでいいだろうと思うと次の文章が待っている。読まざるを得ない。そして知らず知らずのうちにどんどんお椀が積み上がっていく。こんなに読むつもりはなかったのに、いつのまにか読まされている。食べても食べても終わりがないのと同じように、読んでも読んでも終わりがない、それが佐藤正午の小説だ(もちろん、小説に終わりはある、例えればの話だと思ってもらいたい)。

 

 本作の構成は少し複雑だ。


 冒頭は幸地秀吉の目線で物語りが進む。主人公は幸地秀吉という男かと思うと、途中から津田伸一の語りへと変わる。津田伸一とは、過去に小説家として活躍し直木賞を受賞するもその後落ちぶれ現在は地方のデリヘル送迎ドライバーをしながら小説(本作)を執筆しているこの物語の主人公だ。冒頭は津田が書いた小説の一部になっている。つまり「鳩の撃退法」という小説、ならびに「津田伸一」というキャラクターを作り出しているのは佐藤正午だが、作中の文章を書いているのは津田なのだ。


 この落ちぶれた作家である津田が自分が見聞きした事実を元に書く小説を読者は読むことになる。作中の中で起こる一家三人失踪事件や偽札事件といった「事実」が複雑に絡み、地方から東京へと場所を移し、時系列も入り組み多くの伏線を落としながらそして最後は見事にそれらを回収し結末を迎えるという物語として文句のつけようがないのだが、作中の文章すべてが津田が書く小説とは限らない。津田が小説を執筆する過程や思考も同時に書かれていたり、津田が日記のように「事実」を記録している部分もあったりするので読んでいるとどこまでが「事実」(作中で実際に起こったことという意味の事実)でどこまでが小説なのか曖昧になる。しかし、それこそが津田が(あるいは佐藤正午が)この作品で狙っていることなのだろう。事実と小説の関係性、事実としての物語と小説としての物語はどこかどう違うのか、作家はそれをどのように考えて書くべきなのか。この作品は津田(あるいは佐藤正午)が小説の可能性を探り、そして小説とは何か、どうあるべきか、といった小説の本質について語った作品としても読むことができる。


  小説の世界と現実の世界の境界をどこに設定するのか、現実に起こった出来事を小説にする際に何を書き何を書かないのかといった津田の制作過程は読んでいてとても興味深い。そして津田は言う、何を書いて何を書かないかそれは作家の自由だ。現実の世界では事実は書き換えることができないが、作家は事実を曲げることができ、「事実」を心ゆくまで書き直すこともできると。


 小説家が作品を執筆する際にまったくのゼロから書くということはおそらくないと思う。これまでの経験や出会った人々から何かしらかのインスピレーションを受けて書き始めるだろう。自分が経験した事実をどこまで曲げて作品に落とし込むのか。あるいは事実で得た思考をどこまで物語へと飛躍できるか。小説家にはこの能力が必要になる。物語は事実のみからなっているわけではなく、そこにあった事実と、可能性としてありえた事実とからなっていると津田は言う。「可能性としてありえた事実」をどこまで考えることができるかというのが物語のおもしろさになり小説家の腕の見せ所にもなるのだろう。

 

 物語を「可能性としてあり得た事実」にまで押し上げるには細部の描写も必要になる。一見物語と関係のないような描写、長々としたシーンの描写であってもそれがあるのとないのとでは読者が感じる「あり得た事実」感が変わってくる。人物や風景やシーンの描写をじっくり読むことで読者にとってそれが次第に事実へと近づいて行く。その描写が真実を補強する書き方なのかダラダラとした作家の自己満足な表現なのか、その質もまた小説家の力量の差になるのだろう。


 長い小説には長い意味がしっかりとあるのだ。

 

 そしてもうひとつ、津田がこだわっているのが小説と読者の関係性についてだ。小説家はなぜ小説を書くのか。落ちぶれて出版社との交流もない津田はなぜ小説を書くのか。誰のために小説を書いているのか。作中でこのような自問自答を何度も繰り返す。人に読ませる小説と人が読まない小説の違いとは何か。人に読んでもらえない小説を書く意味はあるのか。読者のいない小説をなんのために書くのか。誰にも読まれない小説は紙くずも同然か。結局彼自身にも分からない。小説を誰に向けて書いているのか。誰のために語っているのか。


 小説に限らず文章とはそういうものかもしれない。手紙は明確な読者がいるがそれ以外の文章とは誰に向けて書かれるものなのだろうか。


 僕も仕事で記事を書いている。そのほとんどが広告の記事だ。書いていていつも思う。誰のために書いているのなのだろうか。クライアントのためか、読者のためか。読者とは誰だ。この記事を誰が読むのだろうか。読む人を明確にイメージできない文章は書いていて不安しかない。ネットの記事なら「いいね」やリツイートなどの反応があるだろうと思われるかもしれないが、僕が書いているメディアはクリック数しか見ることができない。この記事を読んで読者がどう思ったのかを知ることはできない。そもそも最後まで読んでいるかもわからない。自分のための文章でもないそんな文章をなぜ僕は書いているのか時々意味がわからなくなる。答えを出すとすれば、それが仕事で日々生きるため飯を食うためでしかない。


 小説もそうなのだろうか。津田はこのことに関して明確な答えを示していないが、印象的な台詞を残している。


「いったん書き方をおぼえてしまった以上、もう書かずにいられないんだよ。それが小説家の生きる道なんだよ。」


 書かずにはいられない。読者がどうとか、意味がどうとかではなく、書かずにはいられないのが小説家というものなのだろう。


 このブログも誰のために書いているのか。正直読者なんて考えていない。強いて言うなら自分のために書いている。自分に読ませるために書いている。普段の仕事が自分のための文章ではないその反動のようなものだと思う。

 

 僕も書かずにはいられないのだ。ただ、まだ書き方を覚えていないだけなのだ、そう信じて書き続けるしかない。

まだ遅くはない ーサラバ(西加奈子)を読んでー

 久しぶりに長編を読んだ。西加奈子のサラバだ。本屋で一行目を立ち読みしすぐにレジに向かった。


「僕はこの世界に左足から登場した」

 

 こんな一行目の小説が面白くないわけがないという期待と、どうやったらこんな一行目が書けるんだよという嫉妬が混じりながら複雑な気持ちで読み始めた。


 本作は主人公垰歩が生まれた瞬間から三七歳になるまでの「生き方」あるいは「生き方を見つけるまで」を描いている。厳密には垰家全員、姉の貴子、父の憲太郎、そして母の奈緒子の四人とその周辺の人々の生き方を描いている。と簡単に書いたがこれほどの長編だ、その内容を「生き方を描いている」なんてひとことで言えるような小説ではない。自分のこれまでの人生をひとことで表せないのと同じように。


 物語は歩の一人称で進んでいく。歩の視線を通した世界、そしてその世界を歩の思考がどのようにとらえているのかが年代ごとに描かれ、それと同時に歩を通して垰家のこと、とりわけ貴子のことが描かれる。


 歩は子供の頃から美少年で周りの人たちから愛されて育つ。一方で姉の貴子はご神木というあだ名をつけられ学校ではいじめられ母からも疎まれて育つ。こう聞くと誰もが歩の生き方を羨むだろう。しかしそこに描かれるのはいつも誰かと自分を比べて周りが自分をどう見ているのかを気にする歩の姿だ。うまくいかない自分を誰かのせいにする歩の姿だ。まるで歩が悪者のように聞こえるがしかし、誰しもが歩と同じではないだろうか。毎日の生活の中で誰かと自分を比べずにただ一心に自分の幸せだけを求めて生きて行くことは難しい。それが必ずしも正しいとは限らない。しかし、垰家の歩以外の人々は自分の生き方に真っ直ぐに向き合って突き進んで行く。自分の幸せを全力で掴みにいこうとする。


 なぜそれが可能なのか。それは三人とも信じるものがあるからだ。三人ともよりどころを持っている。それは他人が決めたものではなく自分自身でつかみ取ったよりどころだ。しかし歩にはそれがない。貴子に言わせると、信じるものを持たない歩は揺れている。歩はそのことに三十七年間も気づかない。


 奇しくも僕も今年で三十七歳だ。僕にはあるだろうか、信じられるものが。自分で決めた、これだという信じられるものが。三人の生き方を見てはっきりと分かった。僕も歩と同じように信じられるものを未だに見つけられていない。なぜそう感じたか、それは歩の生き方を読んでいて身にしみる思いがしたからだ。自分と誰かを比べ、周りには興味のないふりをしながらも評価を気にして生きてきた。自分がこれだと思ったものをすぐにあきらめ、自分以外のなにものかのせいにし、これまで生きてきたように思う。もちろんそれでも生きていける。けれどその生き方の先になにがあるだろうか。歩のように揺れて生きる。あっちに行き、こっちに行き、その都度で考えを変え、自分を変える。変化の激しい今の時代なら、かえってこのような生き方の方が合っているのかもしれない。そういう生き方を推奨する識者の記事も読んだことがある。しかし、それはやはり逃げなのだと僕は思う。


 では自分が信じられるものをどのようにして探し出せばよいのか。そのヒントが貴子の生き方にあるように思う。彼女は子供の頃からおかしな行動ばかりをとってきたが、その行動のすべてが信じるものを見つけるための行動だったのだ。貴子は他人を気にせず色々と試した。自分にとって何が大切か。自分は何を愛せるか。必死で探したんだと思う。自分は愛されていないというのがわかっていたにもかかわらず。それを恨みやつらみにかえるのではなく。信じたと思ったものに裏切られることもあっただろう。それでも貴子は必死に信じられるものを探した。


 それを見つけるには相当な長い時間がかかる。貴子も歩も父の憲太郎も母の奈緒子も、長い時間をかけてやっと見つけることができた。おそらく彼らもそれを見つけようと強く意識して生きてきたわけではないだろう。生きにくいなと漠然と思うことの先に、なんとかこの自分の人生を生き抜くためにもがいた先に見つけるものなのかもしれない。


 そんなものなくても生きていけるという人もいる。そういう人はきっと別の部分で満たされている人だろう。効率よく生きている人かもしれない。悩まず笑って楽しく生きられればそんな効率のいい人生はない。けれど生きるということはもともと非効率なことなのではないだろうか。そして理不尽なことなのだと思う。だからこそ信じるものが必要なのだ。信じるものがないと生きていけないというのは決して弱い人間ではない。むしろ強い人間だ。それはこの小説に登場する人々を見れば納得がいく。


 損するかもしれない、誰かを傷つけるかもしれない、人に理解されないかもしれない、だとしても強く自分が信じられるものを見つけなければならない。そしてそれを見つけるためにかかる時間を受け入れなければならない。ぼくはすでに三十七だ。けれど遅くはない。これまで生きてきた時間からなのか、それともこれからなのか、ちょっとがんばってみようと思う。

サウナ小噺「十二分」

 大抵のサウナ室の壁には十二分時計という特殊な時計が掛けてある。十二分時計は時刻ではなく十二分という時間を計るためだけにある。十二分時計には秒針と分針の二つの針があり、秒針が一周すると分針が一つ進む。秒針が十二周すると分針は一周して元の位置に戻ってくる。これで十二分だ。時計の盤面には一から十二までの数字が書かれているので一見すると普通の時計に見える。初めてサウナに入った人はこの時計を見て驚くかもしれない。半日がたったの十二分で過ぎてしまうのだから。

 なぜ十二分なのか、このご時世調べればすぐに答えが出るはずだが未だに調べていない。サウナに入るととりあえず分針が一周するのを、つまり十二分経つのを座って待つのだ。

 僕は銭湯での時間をなるべくサウナに使うために体と頭は自宅で洗う。その日もいつものように自宅で体と頭を洗い近所の銭湯に向かった。

 ここの銭湯のサウナ室は段々畑のような作りでゆるやかな傾斜に五段ほどの座席が設けてある。一番下の段にはテレビ台と業務用冷蔵庫二個分ぐらいの大きさの熱波を放出する機器が木製の柵越しに見える。僕はいつも一番上の段に陣取ってテレビと十二分時計を交互に眺めるのだ。

 午前八時からやっているその銭湯はいつも行く午前九時にはすでに数人のお客さんで賑わっている。賑わうといってもサウナ中に話をする人は誰もいない。静かに座りただテレビを眺め、ときおり十二分時計に視線を送る。 

 その日は珍しくサウナ室には誰もいなかった。

 僕の目に映るもので動いているのは十二分時計の秒針と分針だけだ。厳密に言うとテレビに映し出されたトーク番組に出演している芸能人も動いていたが、僕とサウナ室という空間を共有していたのは十二分時計だけだった。

 ぼんやりとテレビを見ながら気づいたことがある。普段なら六分もすれば体中から汗が吹き出してくるはずが、僕の体は何の変化も起こしていなかった。たしかサウナに入ったとき分針は二を指していたはずだ。いや、三だったかもしれない、あるいは一だったかもしれない。わからない。自分がいつサウナ室に入ったのか、サウナ室に入った時に分針がどの数字を指していたのかわからなくなっていた。六分経ったと思っていたのは間違いだったのだろうか。いや、六分は経っているはずだ。確実にそう言えるだろうか。回る秒針を見つめた。そしてゆっくりと少しずつ動く分針を見つめた。

 こうなるともはや十二分時計は何の役にも立たなくなる。いつひっくり返したのかわからない砂時計で時間を計るようなものだ。砂時計であれば砂がすべて落ちるという終わりがあるが十二分時計には終わりがない。どこが十二分なのか分からないまま秒針と分針は回り続ける。

 僕とサウナ室の関係は十二分時計で成り立っていた。そして僕と十二分時計の関係はサウナ室で成り立っていた。十二分が計れない今となっては終わりのない時間の中で僕は完全に一人だった。

 いつ出ればいいのかタイミングがわからないまま数分が過ぎた。木製の重い扉が開き一人の老人が入ってきた。何度か見たことのある常連の老人は痩せて皮膚が垂れてはいるが色黒のせいか垂れた皮膚の向こうに筋肉質的な硬さがあった。老人は入ってくるなり一番下の段の熱波を放出する機器の前に寝転がり目を閉じた。

 僕は銭湯やサウナで話しかけられるのがあまり好きではない。話かけてきそうな雰囲気を出す客(たいてい老人だが)がそばに来ると死んだような薄眼でテレビを見つめるようにしている。その老人も以前は何度か僕に話しかけようと上の段の僕の定位置の隣に座ってきたことがあったが僕はそれをすべて老人の独り言として処理していた。

 目を閉じて横になっていた老人は立ち上がると僕の方に向きそして前屈の姿勢になり自分のお尻を熱波を放出する機器に向け平手で叩き出した。それが終わると今度は回れ右をして向き直りしゃがんだかと思うと両足を左右に大きく開き今度は股間を機器に向けまた自分の尻を平手で何度も叩いた。

 まるで僕に対する挑戦状のようだ。これを見せられて「何をやっているんですか」と聞かずにいられるか。サウナ室には僕と老人しかいないのだ。

 前向きと後ろ向きの平手打ちが終わると老人は僕を見た。というより僕が老人を見ていた。

「今日は人が少ないので思わずやっちゃいました。すんませんね」

 老人は少し恥ずかしそうに言った。

「健康法か何かですか」

 この状況でこの台詞が出てきた自分の臨機応変さに気分を良くした僕は自然と老人に笑顔を送ることができた。

「いつも家でやってるんです。これやると気合が入るんでね。一度ここでやってみたいと思ってまして。お兄さんしかいなかったもんだから」

 そう言うと老人は声を出さずに笑うと会話の終わりを意味する会釈をしサウナ室を出ていった。老人が出て行く間際に僕は聞いた。

「いつも何分ぐらい入ってますか」

 老人は重い木製の扉に手をかけると僕の顔を見て僕が向けた視線を追った。

「あんなところに時計があったんですね」

 もう一度会釈をするとハゲているのか短く刈り込んでいるのか区別がつかない頭をさすりながら出ていった。

 僕は十二分時計を見た。いったい何分ここにいたのかさっぱりわからなかったがもうどうでもよくなっていた。

 その瞬間、体から大量の汗が噴き出した。

無料の価値とは

 映画や漫画を見たり読んだりするときにハズレを引くということがなくなった。事前にネットで情報が得られ、口コミなどですでにそれを体験した人たちの感想を見ることができるようになったからだ。面白そうなら見ればいい、面白くなさそうであればやめればいい。時間とお金をそれにつぎ込む価値があるかどうか、人は意外とシビアに判断している。 小説はとくにその判断がシビアになる。かける時間が映画や漫画よりもはるかに長くなるからだ。自分の人生の10時間をこの本に費やして大丈夫か、ちょっと大げさかもしれないが、僕は書店で本を選ぶときに時間も考えながら選んでいる。

 ハズレという観点では小説も映画や漫画と同じで事前にいくらでも情報を得ることができる。ちょっと立ち読みをすれば中身を知ることができる。これは映画や漫画にはない良さだろう。つまり小説の方がハズレを引く可能性は低いといえる。たまには立ち読みをして良さそうだなと思って買って読み進めていくうちに、面白くなくなってしまうことはある。そんな面白くない小説はこれまでの読書経験で数えるほどしかないが、久しぶりにおもしろくない小説に出会った。それが『   』というタイトルの小説だ。なぜタイトルが『   』なのか、それはまだタイトルが付いていない小説だからだ。

 講談社が進めている「本づくりプロジェクト」という企画がある。これは小説を無料で公開しそれを読んでもらい、扉絵を募集したりタイトルを募集したりする読者参加型の企画だ。この第二弾が、とある小説を読んでタイトルをつける、というものだったのだ。

 ここに一つの落とし穴があった。「無料」だ。「タダ」だ。タダで小説が読めるのだ。タダなら読んでみようと、何も考えずにその著者の過去の作品も調べずに読み始めたのだ。 著者行成薫のこの作品は、連作短編集だ。とある遊園地の閉園をきっかけに、それにゆかりのある人々に起こる出来事を描いた作品だ。語り手は中学生から老人までと幅広い。こう書くとなんだかおもしろそうな小説に思えるが、実際はそうではなかった。

 本書の第1話を要約するとこうだ。とある中学生の男女が閉園の日にダブルデートで遊園地に行く。ジェットコースターが苦手な一組の男女がいる。まだ付き合ってはいない。一緒にジェットコースターに乗る。物語の最後に女子が海外へ転校することを知った男子が女子に告白するもフラれてしまう。

 これを読んだときに、これはまずいなと感じだ。この話の何がおもしろいのだろうか。どこかで聞いたことがあるような、ベタなラブソングにあるような話だ。その後の話もどこかベタでよくあるよね、と思ってしまうような話ばかりなのだ。

 離婚した男性が、妻に親権のある息子と遊園地にやってくる。ゴーカートで勝負をして負けたら息子の願いを何でも聞くという約束をする男性。結果は負けてしまい、息子の願いを聞く。すると息子はお母さんともう一度話をしてみてほしいという願いを男性に告げる。おそらくこの話を読んだほとんどの人が予想していた結末だ。男性が昔プロのレーサーを目指していて、それが原因で離婚してしまい、といった過去もあるのだが、それにしても「物語のお手軽感」は否めない。

 この時点で読むのをやめてもよかったのだがとにかく最後まで読み切った。といっても後半は2,3行飛ばしながら読んだのだが。

 これほどに面白くないと思ってしまった理由は無料で読めるという点にもあると思う。自分でお金を出して買った本であればたとえ面白くないと気づいたとしても自分の感性で買ったのだから、自分がお金を出して買ったのだから、どこかに面白いところがあるはずだ、と読み方も変わったかもしれない。この小説は面白くないかもしれないと気づいたときに「無料で読ませる小説だし」という感覚が僕の中のどこかで顔を出した。それが顔を出してからはとことんこの小説が面白くないと感じるようになってしまった。無料で読むことで小説に対する作家に対するリスペクトのようなものが一切なくなってしまった。だから僕はこの文章を書こうと思ったのだ。自分の時間をこの文章を書く時間に当てることが僕の作家に対するリスペクトだ。たとえそれが作品を批判する内容であったとしても。 無料で小説を公開して成功した例もある。「ルビンの壺が割れた」という小説だ。これも今回と同様に「この本にキャッチコピーをつけてください」という読者参加型の企画でネット上で無料で公開された。僕も読んでそこそこ面白いなあという印象を抱いた。ツイッター上ではこの本を大絶賛するツイートがあふれているが、そこまで言うほどか?というのが僕の印象だ。しかし、この作品はその後製本され本屋に並び大ヒットとなった。作品の力もあっただろうが、このネット上で話題も作品の売り上げを後押しすることになったと思う。

 面白いか面白くないかは個人の基準によるのでこの小説を面白いと思う人は当然いるだろう。しかし、小説をどう読むかでその感覚が変わる。僕は「出来事」を語る小説が苦手だ。今回で言うと「遊園地の閉園」という出来事が作品の中心にある。もう少し人について語って欲しかったし、語るなら誰もが思いつくようなベタな展開はやめて欲しかった。「ルビンの壺が割れた」は人にフォーカスしているとは思う。しかし、読者を驚かそうとする作者の意図が見えてしまうので興冷めてしまった。

 様々な娯楽が世の中にあふれる現在で、読書に時間を割いてもらうためには「簡単に読める話」「わかりやすい話」「わかりやすい共感」が求められるのかもしれない。読み終わった後に何か発見があるのではなく、「そうだよね!この感覚みんな持ってるよね!こういう経験みんなするよね!」といった共感が求められているのだろう。そこで僕は今回読んだ小説にこうタイトルをつけた。

『よくある話』


 簡単に共感できるよくある話の小説は今後読まないように気をつけよう。


 本が売れない時代に出版社は様々な手段を使って本を売ろうとする。しかし、その行き着く先が無料だとむなしい。読み手だけでなく作り手さえも「無料」だからいいか、という感覚でいるとすれば、小説に関わらず、今無料で公開されているコンテンツに未来はない。


 そこで思うのは「新しい売り方」をするときに、売る側に作品に対するリスペクトがあるだろうか、ということだ。読者が楽しめるものを提供するのは当たり前だと思うが、とりあえず無料で提供する、ネットで話題になることを第一に考えるのではなく、作品の質を高めるのも出版社の役割だ。今回読んだ作品はただ面白くないというだけでなく、物語の構成やつながりの部分において違和感のある部分が多かった。 


  面白くないと感じた小説を、面白くないとはっきりと表明するのにはリスクがある。何事も批判することにはリスクが伴う。おまえはどうなんだ?そもそもおまえの読み方が間違ってるぞ、なんて言われて言い返せなかったときのことを思うとそう簡単に何かを批判することはできない。しかし、面白くないときに黙るのではなく、なぜ面白くないのかをきちんと説明して批判するのであればそれはそれで意味のあることだと思う。無料でそのコンテンツを享受しているからこそ、批評、批判は必要だと思う。


 無料で公開されて、しかも無視される、これはコンテンツにとって地獄だ。

縦と横、どっちがわくわくするか

 事故や災害などのニュースで最近よく目にするのが視聴者提供の動画だ。スマホの普及によって誰でも動画を撮影できるようになり、一人一人がニュースの発信者になれる。テレビ局もカメラマンを派遣することなく、直後の生々しい映像を提供してもらえるので重宝していることだろう。

 そんな視聴者提供動画を見ていてふと思ったことがある。ほとんどが縦動画なのだ。スマホが縦だから縦動画なんでしょ、と言われればそれまでなのだが、普段の生活で見ている映像はテレビや映画などそのほとんどが横動画だ。テレビにいたってはかつて4:3だった画角が今では16:9とより横に広くなっている。にもかかわらずスマホで撮影するときにはなぜか縦を選ぶ人が多い。片手で撮影できる、見返すときにスマホを横にする必要がない、という理由で縦で撮影する人が多いのかもしれない。かく言う自分はどうかと言うと、スマホにある動画データを確認してみたところ、ほとんど横で撮影している。縦で撮影した動画は確認できた範囲では一つもなかった。これまでそれほど縦と横を意識して動画を撮影してきたわけではないが、これを機会になぜ自分は横で撮るのか、なぜ縦で動画を撮る人が多いのかを考えてみた。

 まずは情報量だ。これは感覚かもしれないが、横動画の方が縦よりも情報をたくさん入れることができるような気がする。そんなことを考えながら街を歩いていたらポスターが目に入った。縦だ。一般的にポスターと呼ばれるものは縦長だ。紙のサイズの規格の関係もあるだろうが、横のポスターももちろんあるが、ポスターのほとんどが縦だ。看板も縦だ。情報を伝えるためのツールであるはずのポスターや看板なのに縦だ。看板についてはスペースの問題もあるだろう。しかし、ポスターも看板も縦が多い。これでは先ほどの「情報量の違い」という考えと矛盾してしまう。そこで考えた。動きがあるかないかではないだろうか。動きのあるものは横、動きのないものは縦と考えると腑に落ちる。なぜ動きのあるものは横なのか。それは世の中の動くモノは圧倒的に横の動きが多いからだ。道路を走る車や歩く人々は右から左、あるいは左から右へ移動する。一度立ち止まって自分の周りの風景をじっくりと見回してみて欲しい。視線は右から左、左から右へと横移動をしているはずだ。あまり縦に視線を動かすことはない。縦に動かすことがあるとすれば文章を読むときぐらいだろうか。文章だからポスターや看板は縦が多いのではないか。横にスクロールする文字を読むのと、縦にスクロールする文字を読むのとどちらがよみやすいか。僕は圧倒的に横だ。新幹線内で流れるテキストのニュースを思い浮かべてもらえれば実感できるはずだ。小説や新聞は縦書きの文字を読むのに、動きが付くと横が読みやすくなる。やはり人は横の動きを目で追いやすいのだ。つまり、僕が縦動画に違和感を感じるのは、動画なのに視線が横ではなく縦に動いてしまうから、なのかもしれない。縦に動かすというよりもスマホの縦動画はあまり視線を動かすことがない。カメラそのものを左右に動かして撮るのでその動画を見るときには視線をあまり動かす必要がないのだ。動画なのに視線を動かさない、ここに縦動画に対する違和感があるのかもしれない。

 ではなぜ人々は縦で動画を撮るのだろうか。それは縦が人をわくわくさせるからではないだろうか。ちょっと意味が分からないと思った人もいるだろう。子供の頃を思い出して欲しい。エスカレーターやエレベーターに乗る際にわくわくした経験があると思う。これは普段の生活ではできない、目にすることのない縦への動きに非日常のようなもの、未体験の喜びのようなものを感じていたのではないだろうか。思わずスマホをいじってしまうのもそこに理由があるのかもしれない。画面を指で縦に動かす。普段縦に移動するものを見る機会が少ないから縦移動の多いスマホをいじってしまうのかもしれない。シンプルにスマホが生活に必要なものという理由ももちろんあるが。

 風景はどうだろうか、見渡す風景と見上げる風景、どちらも綺麗な景色であれば感動するが、よりわくわくするのは見上げる風景ではないだろうか。

 僕はブログを縦書きで書いている。これもおそらく書いていてわくわくするからだと思う。

 今後物事を考えるときに縦という概念を意識してみると面白いものがうまれるかもしれない。なんの根拠もないが漠然とだが、縦に何かしらの可能性を感じた。

仕事も小説も人であるけれど ーとにかくうちに帰ります(津村記久子)を読んでー

 朝起きて顔を洗って朝ご飯のお茶漬けを食べて天気予報を確認して歯を磨いて家を出て電車に乗って職場に向かう。職場に着いたらパソコンを開いて文字を書き定時になったのを確認したら駅までの帰り道あるいはプラットホームで会社の人と鉢合わせすることがないようにその三十分後に会社を出る。そして満員電車に揺られて帰宅する。こんな生活を今の家に引っ越してから一年ほど続けている。朝八時に家を出て夜帰宅するのは二十時だ。一日の半分を仕事のために費やしている。一日の半分を仕事に費やしているにもかかわらず、帰宅して今日何があったかと思い出すと頭の中には何も残っていない。ただしんどかったなあという絶望と呼ぶには過ぎるなんともいえない切なさと未来のなさだけが残っている。

 なぜいきなりこんなことを考えたのかというと、津村記久子の「とにかくうちに帰ります」が職場を舞台にした人間模様を描いた小説だからだ。人間模様と言っても社内恋愛とかどろどろの不倫とか出世のための政治とかそういうものではなく、職場での何気ない出来事や何気ないコミュニケーションが描かれている。

 読み終わってみて真っ先に考えたのが自分の平日の一日だったのだ。この小説のように自分の一日を文章にすることができるだろうか、自分の一日から何か物語りを生み出すことができるだろうか、そう考えてみたのだが、結果、何も生み出すことができなかった。しかし、津村氏はこのように小説を生み出している。ひとつひとつの話は取るに足らないものだが、取るに足らない一日を我々は過ごしており、そこにしか自分たちの「生」はない。取るに足らないことを描けるということは一日を「きちんと生きている」ことなのだ。ただぼんやりとではなく、人を見て、人との会話を大切にして、つまり人との関わりを大切にするということ。

 一日を振り返って何も生み出せない僕は職場での人との関わりをないがしろにしているのだろうか。そうだ、その通りだ。職場では僕は仕事以外の会話をほとんどしない。会社には月に一度部署の垣根を越えてランチをするシャッフルランチというイベントがあるが、それにも参加していない。なぜなら、人と話すのが億劫であることもあるが、会社の人たちと話をしていてまったく楽しさを感じないからでもある。営業の話すことは二言目にはお金の話だ。ライターである僕としては記事の中身をどうるすかとか、クライアントの要望は何かとか、そういうことを話したいのだが、なるはやで始めたいとか、今月中に出稿しないと予算がやばいとか、つまり仕事のベクトルが違う。そういう人たちと話をする、そういう人たちに関心を向けるのはなかなか難しい。


 たしか津村氏は仕事を持つ作家、つまり兼業作家だったはずだ。しかしこの小説は僕のような感覚で人を見るのではなく、きちんとひとりの個人として職場の人を見ている。それは熱心に観察しているように思えるが、実はとても冷静だ。自分の仕事を、自分の周りで働く同僚を離れたところから冷静な目で見つめている。


 この小説のもう一つの特徴は誰もかっこつけていないということだ。肩書きや仕事の内容が詳しく説明されているわけではないが、登場人物はみなかっこつけることなく、自然体で自分自身の毎日を生きている。表題作である「とにかくうちに帰ります」はゲリラ豪雨が降る中を三人の大人と一人の子供が自宅まで(厳密に言うと駅まで)歩く話だ。登場する大人はいずれも会社員であるが、仕事や役職などは関係ない。ただ、家に帰りたいという思いを抱いた人たちだ。


 印象に残った文章がある。


”家に帰って食べたいものを、マッチ売りの少女のように数える。玄関についてレインコートを脱ぎ、化粧を落として床に座ったら、自分はしみじみ泣くだろう。そこにいることに、傘をささなくていいことに、屋根があることに。明日が休みだというのはきっと二の次だ。風呂に入ってスエットに着替えて買ったものを食べてすぐに歯を磨いて、今日は眠ろう。それ以外は何もなくていい。”(本書P181)


 仕事をしていても社会人でも大人でもこれでいい。かっこつける必要はない。僕が勤める会社の人間はどこかかっこつけて仕事をしている。知らないことを素直に知らないと言えず強がって、それって実はすごくかっこ悪い。


 これを読み終わって思ったのはやっぱり小説って人だよな、ということだ。ずいぶんと抽象的だが、現実の世界では職場での人と為りはあまり信用できない。職場外での言動がその人そのものなのだ。この小説に出てくる人たちは、一部そうではない人もいるが、たいていの人たちはかっこつけることなく仕事だからとかプライベートだからとかそういうつまらないことを考えることなく過ごしている。そんな当たり前と思えることが現実の世界ではなかなかできない。だからこの小説は魅力的なのだ。 

 一日の半分を会社のために使っている。それはつまり、自分ではない。職場の外にこそ自分がある。逆を言えば会社で嫌なやつも会社の外では良いやつかもしれないということになる。仕事をしているときと、していないときで人は皆自分を使い分けている。


 人間って器用だと思う。と同時にそれってしんどいよな、とも思う。