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酒飲み20年目、飲み方を改めるときなのかもしれない。ー「酔っぱらいに贈る言葉(大竹聡)」を読んで

 

酔っぱらいに贈る言葉 (ちくま文庫)

酔っぱらいに贈る言葉 (ちくま文庫)

 

 

なぜ酒を飲むのか?という質問に答えるのは難しい。それはなぜ生きるのか?という質問の難しさに匹敵する。おいしいから飲む、楽しいから飲む、というわかりやすい答えでもいい。

 

しかし、そんな単純なことではない。なぜ生きるのか?という問いに「楽しいから!」なんて答える人はちょっとどうかしている。

 

酒飲みにとって酒を飲むことは生きることと同義であるから、生きることを説明するのが難しいように、酒を飲むことを説明するのも難しいのだ。

 

とくに酒を飲まない人にとって、酒飲みの言動は理解できないものがあるかもしれない。

 

休日は昼から酒を飲んでいる、なんて言うとあからさまに嫌な顔をする人もいる。ましてや記憶をなくした、路上で寝たなんて話をすると、もう人間扱いしてもらえない。

 

記憶うんぬんとなるとさすがに行き過ぎだが、酒を飲むことに対してそんなに嫌悪しなくてもいいじゃないかと思ってしまう。

 

酒を飲まない人にこそ読んでもらいたい

 

今回紹介する本「酔っぱらいに贈る言葉」には、著名な人からタクシー運転手まで様々な人たちの酒にまつわる名言(迷言)や著作からの抜粋など、数々のエピソードが収められている。

 

タイトルは「酔っぱらいに贈る」となっているが、僕は酒飲みじゃない人にこそ読んで欲しいと思っている。

 

ここでいきなりだが解説を書いた作家の戌井昭人氏の言葉を引用しよう。

 

人生に困ったときに用意されている言葉を集めた物が聖書であるとすれあば、本書は、酔っぱらいが、どうして酒を飲むのか問われ、困窮したときに良いわけをするバイブルになり得るのではないかと思うのです。

 

 

つまり、これを読めば酒を飲まない人にも酒好きの気持ちや、酒を飲むことの良さを知ってもらえるということだ。戌井氏は「いいわけをするためのバイブル」と言っているが、それは「酒を飲む意義と同義」とここでは考えたい。

 

本書の中で、ヘンリー・オールドリッチが、酒を飲まない理由なんてないと言い、坂口安吾は酒を飲むのは生きるのと同じと言う。これだけ読むと「ほら、やっぱり酒飲みはこういう非論理的なこと言うじゃない」なんて思うかもしれないが、酒飲みの言葉はこれだけではない。

 

酒飲みの文章には酒飲みならではなの感覚と観察眼が潜んでいるのだ。本に収録されるぐらいの方々のエピソードなのだから、そんじょそこらの酔っぱらいの話とはわけが違う。

 

中でも自分が印象に残ったのが成田一徹の文章だ。

 

隅々まで磨き込まれた店内は、清浄な空気に満たされている。が、不思議にこの時間特有のひんやりした感触がない。どういえばいいのか、空気が充分にウォームアップされている感じなのだ。

 

開店直後の飲み屋というのはまだそこが飲み屋になりきっておらず、日常の延長のようなどこかよそよそしい雰囲気を醸し出している場合がある。しかし、お店によっては開店直後でもすでに店内が飲み屋の空気に満たされており、違和感なく最初の一杯目をいただくことができる店もある。

 

開店直後のよそよそしさを感じさせないように、誰もいない空間にあたかも人がいるかのように、しっかりと店を温めるという店主の酒飲みに対する配慮なのだ。そして、うちには開店直後のよそよそしさを敏感に感じ取る能力を持つ客が来る、という酒飲みに対するリスペクトでもある。

 

当然来店した客もその店主の想いを感じ取り、「お、今日もしっかりと温めてくれているな」とそのプロ意識に尊敬の眼差しを向けるのだ。ここに店主と客の言葉のない信頼関係が生まれる。お酒を飲まない人でもこの感覚が分かるという人はいるのではないだろうか。

 

このように、酒飲みは意外と繊細なところがある。ただ酒が飲めればどこでもいい、なんでもいいというわけではないのだ。

 

酒の飲み方を改める

 

自分も酒飲みの端くれとして何かお酒にまつわるいいエピソードはないものかと考えてみた。しかし、何も思いつかない。長く酒を飲んできたが、名言や名シーンに出会った記憶がない。文字通り酒で記憶を失くし、せっかくの名言やシーンを忘れている可能性もある。

 

エピソードがまったくないわけではない。しかし、すべて酒で失敗したエピソードしか思い出せないのだ。路上で寝たり、人に説教をたれたり、スマホを壊したり、バッグを

失くしたり、自転車を路上に放置して警察官ともめたり、こんなことばかりしか思い出せない。かれこれ二十年近く酒を飲んできたにもかかわらず、こんなエピソードしかない自分は、酒の飲み方を改めるべきなのだろう。

 

僕の酒の飲み方はただ飲むことを考えるばかりで、誰と飲むか、何を話すかということをないがしろにしているような気がする。おそらくこれらの酒の失敗で、友達を数人はなくしていると思う。自分が気づいていないだけで。

 

この本は、酒を飲まない人にとっては酒を飲むことの良さ、酒飲みに対するイメージを変えてくれる。そして僕のような酒の飲み方が悪い人にとっては酒の飲み方を改める良い機会を与えてくれる。

 

自分が死に、火葬場で焼いている間、葬式に参列した人たちが

 

「そういえばあいつ、一緒に酒を飲んだ時にこんなことを言っていたな」

 

と話題にするようないい酒飲みを目指したい。

メディアは政党の広告とどう向き合うのか

女性誌viviとニュースアプリのグノシーが自民党とタイアップしたコンテンツが賛否を呼んでいる。

 

viviは「どんな世の中にしたい?」というテーマで自民党のロゴ入りTシャツを着た女性モデルたちがそれぞれの想いを語り、さらに「#自民党2019」をつけてSNSに「どんな世の中にしたいか」を発信すると抽選でそのTシャツが当たるという企画。

 

グノシーはアプリ内で「日本政治王決定戦 collaboration with #自民党2019プロジェクト」というクイズ番組を七日間にわたって生配信。正解が最も多かった視聴者には安倍総理のビデオレターが贈られる。さらに、SNSで「#自民党2019」をつけた政治に関する質問を募り、後日質問への回答をグノシー内で記事として配信するという企画。

 

いずれも「#自民党2019」をつけてSNSで発信するように促している。つまりこれは自民党の広告だ。

 

これに対してネット上で賛否が巻き起こった。多かったのはやはり否定的な意見だったが、なぜそんなに批判する必要があるのかという人たちもいた。メディアがお金をもらって広告を掲載するのはビジネスとして当たり前だ、というのだ。

 

タイアップという手法にはメディアの思想が反映される

 

「お金をもらっているんだから、広告を載せるのは当たり前」

たしかに言われてみればそうだろう。紙、ネットにかかわらずほとんどのメディアと言われるものは広告で成り立っている。お金をもらって広告を掲載しているのだから何も悪くないという意見が出てきてもおかしくはない。

 

本当にそうだろうか。例えば女性誌が特定の香水メーカーとタイアップして記事を掲載したとしても、メディアの思想を気にする人はいない。しかし、社長が女性差別発言を繰り返す香水メーカーとのタイアップ記事を掲載した場合はどうだろうか。おそらく炎上とまではいかなくても、読者はその雑誌のスタンスを疑うだろう。

 

もうひとつ例えると、一部上場企業が運営する老舗結婚相談サイトとのタイアップをOKしている女性誌でも、エロサイトやいかがわしいサイトにも広告を掲載し、売買春の温床になっているかもしれないと言われる出会い系サイトとのタイアップにはOKは出さないだろう。例えその出会い系サイトに違法性が全くなかったとしても、もしそんな出会い系サイトとタイアップ広告を掲載したら、読者はそのメディアのスタンスを疑問に思うはずだ。

 

稚拙な表現になってしまうが、世間の大多数が嫌っている物やサービスや企業の広告を掲載すると、なぜ掲載したのかメディアの意図が問われるということだ。たとえそれがビジネスだったとしても。むしろビジネスで掲載するとより批判を受けやすいだろう。

 

ここで注意したいのは広告の中でもタイアップ広告が、という意味だ。バナーや見開きなど、枠を売るだけの広告ならこれほどナイーブにはならないだろう。しかしタイアップという手法はそのメディアが一緒になってつくるものだ。広告主の想いをどのように伝えるかメディアが一緒になって考え発信する。

 

つまり、メディアはお金さえもらえればどんなタイアップ広告でも掲載するわけではないのだ。タイアップ広告にはメディアの意思も反映される。だから自分たちのメディアの立ち位置や読者との関係性、社会に与える影響などを考えて広告を掲載しているのだ。本来はそうあるべきだと僕は思う。

 

商品とのタイアップと政党とのタイアップの違い

 

では政党とのタイアップの場合はどうだろうか。商品のメッセージと、政党のメッセージの違い。そんなこと比べなくてもわかると思うが、商品はある特定の人、ある特定のシーンにしか影響を及ぼさない。しかし政党の場合、今の生活だけでなく未来の生活にまで影響を及ぼす可能性がある。しかも政党によってそのメッセージの内容が異なる。香水Aと香水Bの違いという簡単な違いではなく、この先、どう生きていくのか、どのような生き方をしないといけないのかといった大きな違いがある。政党とのタイアップを掲載する場合は、読者の、そして国民の生活まで考えて掲載する必要があると思う。

 

メーカーが相手にするのは消費者だが、政党とメディアが相手にするのは国民だ。それを忘れてはいけない。

 

メディアは特定の政党の広告を掲載してもいい。ただし条件付きで。

 

メディアが特定の政党とタイアップして広告を掲載することはそんなに批判されるべきことなのか。僕はとくに問題はないと思う。ただしそのメディアがその政党を支持していると表明しているという条件付きでだ。

 

なぜなら、先ほども書いたが、政党とタイアップする場合、読者の今、そして未来の生活まで考えたうえで掲載する必要がある。そこに責任を持てない、あるいは意思がないのであれば掲載すべきではない。

 

しかし、講談社とグノシーは今回のタイアップ広告に対して「政治的な意図や背景はない」と答えている。つまり自民党を支持しているわけでもないのに自民党とタイアップしたというのだ。無責任なタイアップと言われてもしかたないだろう。

 

 

読者との信頼関係を忘れたメディアたち

 

今回の企画について二つのメディアは「政治的な背景や意図はない」というコメントとは別に「若い女性が社会的な関心事にについて自由な意見を表明する場を提供したい」「政治に関心を持ってもらうための企画」といった回答をしている。

 

これはメディアとして褒めるべき考え方だと思う。しかし、それを自民党と一緒にやらなければできなかったのか。メディア単独で十分可能なはずだ。

 

企画を開催するにあたってお金が必要なのであれば自社の持ち出しでやればいい。世の中について考える、政治について考えるという社会的に意義のある企画なのだから、例え赤字になったとしてもメディアとしての役割は十分に果たすことができる、それでメディアの価値も上がる。

 

ではなぜ、自民党と組んだのか。間違っていけないのは、順番だ。講談社もグノシーも政治に関心を持ってもらうため、と回答しているが、自社で政治的コンテンツの企画が立ち上がりそのスポンサーを探し、自民党に決まったという順番ではなく、自民党から広告を掲載したいという提案があり、うちだったらこういう企画ができますという順番で決まったのだと思う。

 

政治的な意図がないのだから、当然ビジネスとしておいしかったからだろう。「広告案件のひとつ」という認識でしかなかったのだろう。どれくらいの金額で受けたのかわからないが、講談社もグノシーも自民党とこういう企画をやることで社会的に話題になることを狙った。女性誌viviがまさか自民党とコラボするなんて誰も思わない。クイズ番組の景品で総理大臣からのビデオレターがもらえるなんて誰も思わない。また、与党第一党と組んでおけば後々いいことがあるとでも思ったのだろう。

 

では批判を受けることは想定していなかったのだろうか。たとえ批判があったとしても「与党第一党」が大義名分になると思ったのだろうか。もし野党から依頼がきていたらタイアップしっていただろうか。自民党を敵に回したくないという理由で引き受けなかったのではないか。

 

両社に「政治に関心を持ってもらいたい」という思想があったとは思えない。

 

これらはすべて仮定の話だが、もしこういう考えで自民党とタイアップしたのだとしたら読者を馬鹿にした考えだ。

 

今回は講談社とグノシーの二社だけだったが、与党第一党のタイアップは儲かるという前例ができれば同じようなメディアが増える可能性がある。その時が初めて問題なのだ。いや、もうその時点ではおかしい。だから与党第一党の広告はセンシティブに扱う必要がある。

 

今のメディアは倫理観や思想といったものが減ってきているように思う。話題性とビジネス。この二つがあればメディアは運営していける。たしかに運営はしているだろう。しかし、結果的に両社は炎上した。それはなぜか、メディアの倫理観・思想とは読者との信頼関係とも言える。例えスポンサーから重宝されたとしても、読者との信頼関係を忘れたメディアが批判を浴びるのは当たり前だ。

 

とくにグノシーはメディアとは言われているが、自社で記事を書くのではなく他媒体の情報を発信するだけのメディアだ。ゆえに情報に対する責任感が薄いのではないだろうか。またviviに比べてグノシーはそれほど炎上していない。これはファンの多さが関係していると思う。viviには大勢の女性ファンがいる。一方、記事を配信する装置でしかないグノシーには多くのユーザーはいるが、ファンと呼ばれる人はそれほどいない。メディアのファンとはいわば監視装置のようなものだ。ファンのいないグノシーは誰も監視する人がいない。大丈夫だろうか。

 

自民党の広告を出すことの何が問題なのか

 

ここで先ほどの話に戻ろう。世間が嫌っている商品のタイアップ広告を掲載すると自社のメディアの立ち位置が疑われるという話だ。

 

現在の自民党はどうだろうか。とってもじゃないが支持されているとは言えない。世論調査で支持率が高いのはほかに適当な政党がないからという消極的な理由からだ。

 

憲法改正、性差別発言、やうやむやになっている森友加計学園問題、年金問題など、とてもじゃないが手放しで支持できる政党ではない。国民もこれについては怒っている人が多いと思う。

 

こんなときに自民党を支持するかのような表現の広告が読者にどう受け取られるか考えればすぐにわかる。しかも、そのような政党が選挙に向けて取り組んでいる「#自民党2019」をつけてSNSに拡散するように促している。国民にあまり支持されていない政党とタイアップしているのに政治的な意図や背景はないと言い、読者に対して何の説明もしないのが僕は問題だと思うのだ。

 

特にviviの案件は、モデルが言うこんな世の中にしたいという項目が今の自民党の政策とことごとく矛盾している。それを自分たちのメディアの読者に伝えることに何の罪悪感もなかったのだろうか。Tシャツをプレゼントしたことで、安倍総理のビデオレターをプレゼントしたことで「若者に寄りそっている党っぽいから支持しよう」という自民党のことを何も知らない若者が出てきたとしても、メディアとしてそれを良しとするのだろうか。

 

自民支持を表明しているメディアならいいが、そうでもないのにこれをもし良しとするなら無責任すぎるだろう。もし、そんなことを考えてもいないのなら、メディアとして論外だ。

 

薄っぺらい自民党のプロジェクト

 

今回の件で初めて自民党が「#自民党2019プロジェクト」なるものをしているのを知ったのだが、特設サイトや施策を見ても、ただのイメージ戦略でしかない。

 

政策を語ることなくイメージ戦略のみで若者に政治に興味を持ってもらおうという発想はあまりにも若者を馬鹿にしている。若者に政治を持ってもらおうというのは建前で、選挙を見据えた取り組みであることは明らかだ。

 

viviやグノシーの企画を介して集められた言葉が「若者の言葉」として政治活動に利用される。街頭演説でこれらの言葉を紹介すればそれを聞いた人たちはあたかも自民を支持する若者の言葉として受け取る恐れもある。

 

何も知らない若者に何も説明せずにイメージだけ植え付け選挙に行かせる。これでいいのだろうか。

 

選挙に勝つためではなく、国民が選挙に行くコンテンツを

 

そもそも政党は広告をしないといけないのだろうか。

テレビCMなどを見ていたらわかるように広告は基本的に幻想だ。もっと強い言葉で言えば、広告は嘘だ。メーカーは自社の商品を使えば生活がより豊かになるかのような表現・イメージで訴えてくる。たとえデメリットがあったとしてもそれを自ら伝えることはない。つまり広告は真実を述べないことが多いのだ。政党の広告も然り。真実を言わないことが前提であるならば政党は広告をすべきではない。

 

しかし、政治に興味のない人にも興味を持ってもらう必要がある。そこで党を超えて与党と野党が一緒になって政治コンテンツを独自で作り発信してみてはどうだろうか。

 

政治は日本の未来をよくするためにある。その一歩は特定の政党が選挙に勝つことではなく、国民が選挙に行くことだ。そのための施策を今の政党はすべきだろう。

 

間違っても、選挙に行けばコンビニで使えるクーポンがもらえる、なんていう施策はやってはいけない。

人間という無駄に立ち戻る ー映画「太陽の塔」(監督:関根光才)を見てー

太陽の塔

それは、1970年に開催された日本万国博覧会のテーマ館の一部として建てられた芸術家岡本太郎の作品だ。

 

太郎はこれを万博のテーマである「人類の進歩と調和」に真っ向から立ち向かうために作った。もし太陽の塔が建てることができないのなら自分がここに立つとまで言った。それほど太郎は「人類の進歩と調和」というテーマに疑問を抱いていた。

 

万博終了後、大屋根やパビリオンが次々と撤去される中、太陽の塔は、当初取り壊されるはずだったにもかかわらずなぜか保存が決まり今も一人立ち続けている。

 

僕が初めて太陽の塔を見たのは2012年の1月。寒い日だった。

 

千里中央駅からモノレールに乗る。「次は万博記念公園駅」というアナウンスが流れた時、車窓にそれは現れた。これまで太陽の塔を映像や写真で見たことはあったがそこにあった塔は自分がイメージしていたものよりもはるかに大きかった。木々に囲まれてズンッと屹立する塔は遠目からでも異質なオーラを放っていた。 

 

モノレールを降りた僕は小走りになっていた。改札を出て左に折れると先ほどよりも大きくなった塔が見える。公園まで歩く間、塔から目が離せなかった。

 

公園に入ると真正面に塔があった。ゆっくりと歩き塔に近づいた。徐々にその姿が視界に収まらなくなる。近くで見る太陽の塔は汚れや黒いシミのようなものがあり、そしてとても孤独に見えた。1月の寒さのせいもあったかもしれない。孤独に見えたその塔を前にして僕は思った。

 

「勝てない。太陽の塔には勝てない」

 

孤独になりながらもただ真正面を見て何かに対して「NON」を言い放つその両腕を広げた姿に圧倒的な敗北を感じた。なんでこんなにも強く立って強く生きていられるんだ。

 

なぜか溢れそうになる涙を堪えてしばらく塔を睨んでいた。

いつか太陽の塔に勝ちたい。

ベンチに腰掛けしばらく眺め、また来る、また会いに来てこの自分の気持ちが変わらずに昂ぶるか確かめるんだと強く思った。

 

それから僕はほぼ毎年のように正月休みを利用して太陽の塔に会いにいくようになった。行くたびに生命の強さと同時に生きることの辛さのようなものを思い出させてくれるのだ。適当に生きているんじゃないだろうな、楽して生きようとしてないだろうな、そう言われているような、どこを見ているのかわからないあのギョロッとした目で睨まれているような見張られているような気がして背筋を正すのだ。

 

しかし、あるドキュメンタリー映画を見てこの気持ちが一変した。

それは絶望だった。

まさか太陽の塔から絶望という感情を抱くとは思いもしなかった。

 

そのドキュメンタリー映画というのが関根光才監督の「太陽の塔」だ。

 

ドキュメンタリー映画と言っても太郎の出演シーンは少ない。太郎にゆかりのある識者たちが、太陽の塔から導き出した9つのテーマについて語る構成になっている。

 

万博が開催された1970年という時代。太陽の塔ができる過程。太郎の生い立ち。縄文時代から読み取れる日本らしさ。日本を変えた原子力。太郎が違和感を覚えた当時の日本のシステム。太郎に共鳴したアーティストたち。太郎が太陽の塔で示した宇宙観、人間観。そして太陽の塔が我々に遺したもの。

 

これらのテーマからなぜ僕が絶望に至ったのか。その過程を説明しようと思う。

 

リセット

 

万博が開催されたのは1970年。敗戦からわずか25年だ。大空襲で焼け野原になった東京。原爆を落とされた長崎と広島。あれからたったの25年で万博を開催できるまで復興したのだ。もちろん、日本だけの力ではない。アメリカの力も大きい。

 

とはいえ、このスピードは速すぎる。世界が驚いただろうが、何よりも驚いたのは日本人自身だろう。あまりにも劇的に変化する世の中に、敗戦をかみしめる暇もなく、まるで敗戦以前の日本を忘れるかのように、振り払うかのように発展した。

 

それはある種リセットのようなものだったのかもしれない。文化も思想も生活も体制もリセットし、過去の日本を忘れ、新しい日本を探し始めた。ただでさえ速いその変化を加速させたのは科学技術だった。その変化のスピードに人々の意識は追いつけずただ従うしかなかった。事実、従うことで幸せを手に入れることができた。

 

そんな1970年に万博が開催された。敗戦の雰囲気はどこにもない。過去の日本はどこにもない。世界が日本に注目した。そこにあったのは夢見たような世界だった。人類の進歩と調和を誰も疑うはずがなかった。その証拠に、原爆によって敗戦を経験した日本だったが「万国博に原子の灯を」を合言葉に原発による万博への電力の供給も行われた。

 

科学技術による進歩の階段へと足をかけた日本に対して太郎は逆行していた。

 

警鐘

 

1951年に縄文土器と知り合った太郎はその芸術性の虜になる。まったく実用的ではない縄文土器。しかし、太郎はそこに表現せずにはいられない人間のあるべき姿のようなものを感じ取ったのだろう。今よりもはるかに文明が劣っていたにも関わらず、縄文時代を生きた人々には芸術が当たり前のように生活に根付いていた。太郎はそこにこそ日本人のルーツ、日本人の持つ可能性を感じたのだ。

 

1960年代には沖縄や東北の文化を巡る旅をしている。旅で太郎が出会ったのは純粋に自然の中で生き、文化を紡ぐ人々の姿だった。そこにあったのは人々の手で造る文化だ。自然が生まれ、動物が生まれ、そして人間が生まれる。そこに優劣はなく、自然の一部として暮らす人間の姿があった。しっかりとした時間の流れがあった。人は自然の一部であり、自然も人の一部なのだ。

 

こうした経験を経て太郎の中に堆積していった思想と万博の思想が真っ向からぶつかったとき、太陽の塔は誕生した。

 

太陽の塔は万博で展示されている科学技術とは一線を画した。塔内部の展示はアメーバから始まり、恐竜やマンモス、そして原始時代の人類などが展示され人間がどのようにして今に至ったのかを表現している。そのほかにも世界各国から集めた仮面を展示したり何気ない市井の人の写真を展示したりした。

 

塔の頂上から大屋根に出るとそこには原爆の恐怖を伝える展示。そして太陽の塔の背中には核を表現していると言われる黒い太陽。「人類の進歩と調和」を未来に見るのではなく過去の、それもまだアメーバだった頃から見つめ、過ちを忘れず、人間と自然の営みこそが進歩と調和の礎になると伝えたかったのだろう。

 

太陽の塔はテーマ館と言いながらその逆を行っているように見えるが、実は「人類の進歩と調和」を伝えている。周辺のパビリオンと違うのはその表現方法・伝え方だった。

 

未来だけを見るのが万博そのものだとしたら、太陽の塔は過去現在から未来を想像し人間性を失うことへの警鐘を鳴らす存在だった。

 

敗北

 

しかしその警鐘は当時万博を訪れた人々の心には響かなかった。

 

万博会場を訪れた人々の目には今まで見たこともないものばかりが入ってくる。心踊ったことだろう。SFの世界が現実に目の前にある。好奇心と欲を駆り立てる。そんな時に過去を、現在を見直し未来を案じろと言われても無理だ。

 

もし僕が当時を生きていたら太郎が伝えようとしていることは理解できなかったと思う。太陽の塔を万博というお祭りの一部として見上げ、その異形のオブジェに過去ではなく未来を見たことだろう。

 

「人類の進歩と調和」に真っ向から挑んだ太郎は完全に万博に負けた。時代の流れ、スピードに一人で立ち向かうこと、芸術で立ち向かうことがこの時から次第に難しいものになる。人が科学技術に負けた瞬間だったかもしれない。

 

希望

 

太陽の塔と同時期に作成された作品がある。それが「明日の神話」だ。

太陽の塔明日の神話に共通するもの、それは核の力への恐怖だ。

 

僕は当初、明日の神話とは核の力を皮肉った作品だと思っていた。核を神話だと思い込んだ人類の末路を描いているのだと思っていた。しかし、そうではなかった。核の脅威、科学技術の脅威により倒れた人類がそこから立ち上がる姿を太郎は神話と呼んだ。太陽の塔が未来への警鐘を鳴らすのとは逆で、明日の神話は未来への希望を描いている。

 

太郎は太陽の塔に込めた想いが伝わらないことに気づいていたのかもしれない。そこで絵画という表現でそれを人々に伝えようとした。その人々とは現在の人ではなく、未来の人々へじゃないだろうか。石器時代の人々が洞窟に描いた壁画を僕らが見るように、明日の神話を見た未来人が、その意味を理解してくれることを望んだではないだろうか。絵画にすることで、何千年後に言葉がなくなってもわかるように。

 

1970年からおよそ50年。世界で紛争が起こる中、幸いにも日本は戦争をせずにここまできた。しかし、災害は多く、そのたびに原発という核の脅威にさらされた。2011年の震災ではその脅威を目の当たりにした。そこから人々は何か学べただろうか。学んだとしてもやはり過去を振り返ることはできていないのではないだろうか。ある意味で日本は何も変わらず、戦後よりも速いスピードで変化している。太郎が意図しなかった方向に。

 

太陽の塔明日の神話も役目を終えてしまったのだろうか。

 

革命

 

太陽の塔明日の神話を1970年当時に太郎が発した警鐘・希望とだけ見ていいものだろうか。今なお残る太陽の塔明日の神話のメッセージの普遍性を考える必要があるのではないか。しかしなかなかそれができない。太郎が警鐘を鳴らした科学技術は今や驚くべきものでもなんでもなく当たり前のもの、生活インフラにまでなっている。こんな時代に太郎のメッセージを掴むのは難しい。

 

戦後25年で万博が開催され核という科学技術を目にした日本。それからまた25年がたち1995年にインターネットを目にすることになる。そして今はAIの時代へと入っている。

 

核は人々の生活を変えた。核が今のエネルギーのインフラになったようにインターネットもインフラになりつつある。そしてAIはそれ以上に人々の生活を、思想を変えようとしている。

 

インターネットの登場により情報革命が起きた。検索を覚えた僕たちはなんでも知ることができた。それまでのテレビやラジオ、新聞による雑多な情報収集から自分が欲しいものをピンポイントで収集できるようになった。

 

そして情報革命は欲求革命を生んだ。それまでの欲求は時代や世間が作っていた。しかし自分で情報を収集できるようになると欲求は属人的でその人特有のものになった。自分が欲しいものだけが手に入る。しかも情報収集することで効率よく手に入れることができる。効率よく欲が手に入るようになり、欲は消費となった。

 

多様性

 

インターネットにより情報収集だけでなく情報発信も簡単にできるようになった。世界中の様々な人たちが情報を発信するようになり、これまで社会に出てくることのなかった考え方も知られるようになる。

 

これにより価値観は細分化され多様性という言葉が生まれた。多様性という言葉が示すように世界中がインターネットにつながったことで世界が「広がった」ように見えるが、実はその逆じゃないだろうか。価値観が細分化されたことで自分と同じ意見を持つ人を見つけやすくなり自分だけの世界に閉じこもりやすくなった。

 

居心地のいい精神世界で疑問を持つことは少ない。自分とは違う意見を持つ他者や自分が馴染めない社会というものを意識しなくても生きていける。

 

以前は引きこもりといえば世の中との接点がなく自分の部屋に引きこもることを意味したが、現在の引きこもりは自分の考え方に引きこもるという意味合いが強いのではないだろうか。しかも、それに賛同してくれる人がいて、インターネットにつながっていれば何不自由なく生きていけるので自分の思想が絶対的となる。

 

世界は自分の手の中にあるという全能感のようなものを手に入れることができる。自分のことだけ考えれば生きていける。生きる上で考える要素がそぎ落とされ、生きる半径が狭くなった。

 

インターネットにより自分たちの世界は現実でも思想でも広がったかのように見えたが実は世界を狭くしてしまったのかもしれない。

 

 合理性

 

インターネットは人類の様々な問題を解決した。不便が解消され便利が増えた。そして便利を突き詰めつめた先にあったのは効率性や生産性といった合理性だった。生活そのものが合理性を求めるようになり、何をするにも理由と結果が求められ、それに合致しないものは無駄とみなされ省かれていった。

 

合理性とは何か。

それは数字で表すことができるものだ。数字が増える、あるいは減ることで可視化される。

 

合理化が進み社会は成熟したかのように見えた。しかしそれは成熟ではなく成長だった。成熟とは必ずしも数字では表現できない。しかし、そんなものは現代では通用しない。数値で表すことができる成長こそが正義なのだ。人として成長すること、それは仕事で結果を出す、収入をあげるという意味になった。

 

その結果、社会は成熟ではなく成長を目指すようになった。数字を追いそれを伸ばすこと、成長にばかり気を取られる。広い意味を持つ成熟から合理性という限定的な価値観を表現する成長を人は求めた。成長は未来しか見ない。新しいことだけが正義なのだ。

 

忘却

 

人々はこれまでにも様々な技術で様々な不便を解消してきた。不便が解消される度に人類の余白も広がった。おそらく大阪万博も人類の余白を広げたと思う。

 

本来、その余白に文化が生まれるはずだったのだ。しかしそこに生まれたのは欲求、そして消費だった。消費すなわち成長を加速させるために効率性・生産性を進め余白を埋めた。そして今、インターネットの次にAIが登場しそれをさらに進めようとしている。

 

AIによる合理化の先にあるもの。それは不確実性の高い人間という無駄を省いた社会だ。

 

AIはこれまでの人類が残してきたデータベースをもとに作られている。しかし、そのデータは高々十数年だ。しかし我々の中には縄文時代からのDNAが受け継がれているはずだ。それを忘れ、数十年のデータを基にした効率的な知能を作り出す。そこに文化が入り込む余地はない。過去や文化は、不便なもの、無駄なものとみなされ忘れ去られていく。

 

もし今、誰かが縄文土器を作ったとしたら「それAIでもっと面白いものが作れるよね」と言われる。あるいは「使いづらいよね」となる。作った人の想いや文化的な側面は価値を見出さない。そして人は何も作らなくなる。自ら文化を作り出すことをやめる。そして人は何者でもなくなる。

 

映画の中で「曼荼羅」というキーワードが出てくる。これは人の人間観、宇宙観を表したものだ。おそらく未来の曼荼羅はAIが作ったものになっているだろう。

 

絶望

 

1970年よりも時代の変化は速い。これに逆らうことはできないのだ。太郎のような人間でさえできなかったのだ。まして僕なんかができるわけがない。日々、インターネットの恩恵を受け、知らないうちにAIを使ったサービスの恩恵を受けている。この流れを逆に行ける人間などいない。

 

そもそも映画を見るまで今書いたようなことを考えたことなどなかった。

 

映画を見終わった後に僕の頭の中に様々な不安が浮かんだ。このままいくと人間に未来はないのかもしれない。

 

そんなはずはないという気持ちで二回目を鑑賞した。そのとき浮かんだのは後悔だった。やはりもう遅いのかもしれない。

 

そして3回目の鑑賞を終えた僕の心は穏やかだった。不安と後悔が絶望に変わったのだ。もう遅い、手遅れだと悟りぐるぐると体の中を動いていた不安と後悔は絶望となって体を満たし落ち着いた。

 

僕は懐古主義ではない。ただ未来に絶望したのだ。「もっとこうあるべきだ!」「人間はこう生きるべきだ」といった主張をする意識も絶望に剥ぎ取られてしまった。

 

もし太郎がまだ生きていたら今の社会をどう見るだろうか。何を作ってくれるだろうか。太郎は太陽の塔曼荼羅だと言った。つまり太陽の塔こそが太郎の人間観・宇宙観なのだ。それが通用しない今、太郎は何も作らない、あるいは作れないかもしれない。人類の進歩と調和には太陽の塔をもって抵抗した太郎も、インターネット・AIの前では無力なのだろうか。

 

しかしまだ太陽の塔は立っている。立ち続けることが未来への希望になる。神話とは太陽の塔なのかもしれない。

 

もし地球上に誰もいなくなり太陽の塔明日の神話だけが残ったとする。そんな地球にやってきた異星人が太陽の塔明日の神話から地球に住んでいた人々の歴史を学び新しい時代を作ってくれないだろうか、そんなどうしようもないことを考えてしまう自分がいた。

 

人間

 

異星人はさておき、絶望しかない未来に向けてどう生きていくか。科学技術を否定する気はない。その恩恵を受けて生きており、それがないと生活が成り立たないほどになっているからだ。

 

何かを否定しながら生きていくことにこそ未来がない。現状を受け入れながら僕にできること、それは人間らしく生きるということだ。

 

科学技術の観点から言うと人間には無駄が多い。その無駄を大切にしながら生きていくのが人間らしさだと思う。

 

無駄なことで悩み、無駄なことを考え、無駄なことを表現し、それらの無駄のために無駄な時間を費やす。これらの無駄に共通していることは自分の頭で考えるということだ。考えない無駄は本当の無駄になってしまう。それではただ時代に流されて絶望に行き着くだけになってしまう。

 

本来なら無駄に考えることが人間らしさであったはずなのに、その感覚が薄れてきた今、もう一度無駄に考えるという人間の原点に立ち戻ることが大切かもしれない。

 

夢という言葉を過大評価していないか

とある企業の広告のキャッチコピーが話題らしい。

 

その一例がこちら。

 

会社勤めを理由に夢を諦めてはいけない。

 

予算を理由に夢を諦めてはいけない。

 

お金を理由に夢を諦めてはいけない。

 

これはクラウドファンディングプラットフォーム「CAMPFIRE」の屋外広告のキャッチコピーだ。「○○を理由に夢を諦めてはいけない」というフォーマットになっており、○○の部分に夢を叶える際にネックとなる様々なワードが入る。

 

夢を応援するサービスを的確に言い表したいいコピーだと思う。けれど僕の心には響かなかった。いいコピーというより正論だよなあと納得してしまったのだ(納得したということはいいコピーなんだろうけど)。

 

話題になっている理由。それはこのキャッチコピーに賛否が集まっているからだ。

「賛」はわかる。問題は「否」だ。いったいどんな「否」があるのか。

 

ツイッターで調べてみたところ、あまり否定的な意見は見つからなかった。もっと「夢なんて夢みたいなこと言ってんじゃねー!」とか「夢夢ってウゼーんだよ!」とか、激しい否定がうじゃうじゃあるのを期待していたのだが、

 

「夢とか目標とかないんだけど」とか

「夢っていう単語が息苦しい」とか

「視野が狭くなりそう」とか

中には「うるせーよ、黙ってろ、余計なお世話だ」という激しい口調のものもあったが、それも一つや二つぐらいであとはおだやかな意見が多かった。

 

「賛否」あると聞き、このキャッチコピーに否を唱える人たちを題材にこの文章を構成しようと思っていたのだけど、ここまで少ないとなんだか書くこともなくなってしまう。とはいえ、たとえ少ないとしてもなぜ「否」が起こったのか考えてみようと思う。

 

  • ポイントはやはり「夢」というワード

 

このワードを聞いて否定的な反応をしてしまった人たちは「夢」という言葉を過大評価しているのではないだろうか。賛成している人たちも同じような感覚だと思うが。

 

夢とは、とても偉大で大切で貴重なものという感覚が強いのだ。

 

こうなってしまったのは子供の頃の「将来の夢は?」という質問に原因があると思う。将来の、未来の、つまり遠い先にある「夢」だ。子供たちは主になりたい職業を答える。あるいは何か成し遂げるべき偉大なことを挙げる。しかも求められる答えはひとつ。つまり「将来の夢」とは唯一無二のものなのだ。

 

子供の頃のこの思い出のせいで、夢という言葉が子供の戯言のような、遠く手の届かないところにあるような、おぼろげな、けれど、叶えなければならないような、そんなものとしてイメージされてしまっているのではないだろうか。

 

もちろん、こういう夢の感覚も大事だろう。けれど、すぐ近くにある小さな夢というものだってあるはずだ。

 

  • 夢には二つある

 

突然だが、僕の夢は会社勤めはせず家で小説や好きな文章を書いて暮らすことだ。

しかし、この夢が叶うめどは立っていない。いつ叶うのかわからない遠く未来にある夢だ。

 

そしてもう一つの夢は久々に週末に銭湯に行き、サウナに入り、その後ビールを飲むことだ。

 

「は?そんなの夢じゃないだろ」と思う人もいるだろう。いや、夢なのだ。僕にとっては目の前にある夢なのだ。遠い未来ではなく。

 

夢には二つあると僕は考える。それは夢までの距離、あるいは夢の速度で決まる。

時間がかかるのか、それともすぐ叶うのか。遠い夢か、近い夢か。この二つの夢を使い分ければ夢というワードに敏感になることもない。

 

子供の頃の「将来の夢」は夢までの距離が遠く、夢の速度は遅い。どこに夢があるのか、いつ着くのかわからない。まだ見ぬものだから期待を抱く、逆に不安にもなる。大人になってなお遠い夢しか持っていないとしんどいだろう。先が見えない、ゴールが見えないまま日々を過ごさなければならない。大人になったら遠い夢を持ちつつ、近い夢ももつべきだと思う。

 

近い夢とは、子供の時に思い描いた夢よりも現実的で、夢までの距離がある程度わかっていて、そこまでどのような速度で向かえばいいのか予測ができる夢だ。

 

今週末、定期券圏内の銭湯に行き、サウナセットの券を買い、サウナに入り、その後駅前の居酒屋でビールを飲む。たったこれだけのことだか、これを夢だと認識できない人は今回の夢というワードに異を唱えてしまうだろう、あるいは「夢なんてないんですけど」という子供じみた(といってしまうのは言い過ぎか)発言をしてしまうのだろう。

 

クラウドファンディングをしている人たちは皆近い夢をきちんと認識できていると思う。自分の夢までの距離がどれくらいなのか、そこに行き着くまでに何がどれくらい必要なのか。クラウドファンディングと聞くと、なにか大きなことを成し遂げるというイメージがあるが、実は近くの夢をしっかりと見据えた人たちが始めているのだと思う。

 

もちろん、まだ見ぬ夢を持つのはもちろんいい。ただ、それだけだと大人になったときに生きるのが逆につらくなる。それとは別にすぐ叶えることができる近い夢も持つことが大事だ。その近い夢が遠くの夢へとつながっている、なんてこともあるかもしれない、こればっかりは結果論だが。

 

 

  • 「諦める」は終わりを意味するのか

 

今回賛否を呼んだもうひとつの理由が「諦めてはいけない」というワードだ。

「夢+諦めるor諦めない」というセットが「夢」というワードをさらに過大評価へと導いた。

 

これは、実際に夢を諦めて、その夢に対してもう可能性を感じられず、絶対的に無理な理由があることを自覚している人たちが敏感になったのではないだろうか。こういう人たちにとって「夢を諦めてはいけない」というワードは傷跡に塩を塗るような感覚を受けてしまったのかもしれない。

 

そもそも諦めるという言葉は終わりを意味する言葉だろうか。学生のときを思い出してみよう。好きな人ができる。告白する。振られる。そして、諦める。しかし、諦めきれずに告白する。そして振られる。諦める。やっぱり諦めきれずに告白する。そして振られる。

 

例えがわかりにくいかもしれないが、諦めるとは終わりではない。「諦める」という言葉には「とりあえず今は」という意味が言外に含まれている、と僕は勝手に思っている。とりあえず今はやめとく。けれど、いつかまた諦めきれなくなる時がくるはずだから、そのときに実行に移せばいい。これぐらいの感覚だ。

 

今週末はサウナを諦めた。時間がなかった。お金がなかった。けれど、来週は給料日だ。来週末はサウナに行く。夢を諦めないとはたったこれだけのことで表現できるのだ。

 

  • 「諦め」と「見極め」の違い

 

今回のコピーが僕に響かなかった理由は年齢にもあるかもしれない。今年38歳になる僕は今まで何度も転職を繰り返してきた。最近また転職をしようと思っているが行きたい企業なんてない。僕がしたいことは先ほど書いたことだけだ。

 

若い頃は色々と夢があったように思う。映画を作るとかCGデザイナーになって海外で働くとか。これらの夢を僕は諦めたのか。いや諦めたのではない。「もうちょっと無理だよね」と自分の可能性を見極めたのだ。

 

言葉遊びのようになってしまうが、「諦め」ではなく「見極め」なのだ。自分のこれまでの生き方や能力を振り返り総合的に判断して「無理だよね」と見極めたのだ。そこにはあまりネガティブな感覚はない。誰かに何かを言われたわけでもなく圧力がかかったわけでもない。自分で納得し、自分自身の意思でそう判断したのだ。

 

一方で諦めるとは自分一人の判断ではないことが多い。先ほどの告白のたとえでもそうだが、諦めるというのは外的要因がほとんどだ。だからこそ「とりあえず今は」なのだ。今じゃないいつかまたその機会がやってくると思えばいい。「諦める」は「見極める」よりも希望のある言葉なのだ。

 

  • 夢は意志の強い人のものだけではない。

 

以上のようなことから「夢」や「夢を諦めてはいけない」という言葉を過大評価しない方がいい。意志が弱くても夢は叶えられる。

 

本当にダメになりそうな時は諦めるのではなく見極めるのだ。諦めるとどうしても誰かのせいにしてしまう。そうではなくしっかりと自分と向き合って見極めることが夢と付き合っていくには大事な感覚ではないだろうか。

 

僕の夢の感覚は今回の件とは少しずれているかもしれないが、こんな夢の捉え方があってもいいのではないかと、ゆるく思うのだ。

偽善のススメ

朝の通勤電車。座れるなんて思っていない。しかしたまに座れる瞬間が巡ってくる日がある。その日の朝がそうだった。

 

つり革につかまった自分の目の前に座っている乗客が、僕が乗った次の駅で降りたのだ。たまにはこんなラッキーがあってもいい、と思った次の瞬間、僕の隣にいた女性、つまり降りた乗客の斜め前に立っていた女性が、座ろうとモーションをかけている僕をすり抜けてその席に腰を落ち着けた。空いた席に座るのに、先にその電車に乗っていた人が優先というルールでもあるかのように。そして、スマホでゲームを始めた。

 

そもそも、座れるなんて思ってはいない。けれど座れる!と思った瞬間に座れなくなると、しかもちょっと理不尽な理由で(これは理不尽と呼んでいいだろう)座れなくなると、そりゃイラッとするものだ。しかも通勤電車の中ならなおさら。たかだかこんなことでストレスは溜まっていく。

 

たまるべくしてたまるストレスもあれば、このように溜めなくてもいいのに溜まってしまうストレスもある。

ストレスの原因に大小はあるだろうが、溜まってしまえばすべて同じなのだ。心のゴミ箱はすぐにいっぱいになる。

 

 

たかだかこんなことで溜まったストレスを酒を飲んだりサウナに行ったりわざわざ金を使って発散させなければならない。お金を使っい無駄に酒を飲み記憶をなくし路上で寝る。起きるとスマホがバキバキに割れバッグや財布がなくなっている。罪悪感と自己嫌悪というストレスがまたたまる。

 

ストレスの溜まり方も発散の仕方も人それぞれだろうが、万人に効くのではないだろうかと気付いたストレス解消法がある。

 

それが「偽善」だ。

 

きっかけは仕事で参加したごみ拾いイベントだった。拾うごみの種類や重さでポイントが決まり順位を競うスポーツ要素の入ったごみ拾いだったこともあり、良い結果を残そうと一心不乱にごみを拾った。そして40分のごみ拾いを終えた僕の気持ちは今までにない清々しさだった。結果は振るわなかったが、ごみを拾うという行為によって胸がスッとしたのだ。

 

天気のいい海のそばで拾ったせいもあるだろう。海のそばならきっと落ちているはずと目を凝らして探し、やっとのことで使用済コンドームを発見できた達成感のせいもあったかもしれない。しかし、とにかくごみを拾い海をきれいにしたという事実が僕のストレスを減らしてくれた。

 

しかし、これはあくまでイベントでのごみ拾いだ。しかもスポーツ要素が入っている。普段の生活で同じことができるだろうか。後日、通勤途中に僕は思い切って道端に落ちているごみ(なんのごみかは忘れたが)を拾いコンビニのごみ箱に捨てた。捨てた瞬間に僕の心に浮かんだのは「偽善」という感覚だった。普段は道端に落ちているごみなんか拾わない。良い人ぶったわけではないが、もう一人の自分がごみを拾う自分を見て「偽善」とつぶやいた。しかしそのあとにやってきたのは何ともいえない清々しさだった。「俺いいことしたじゃん」という快感が胸を通り抜け、少しだけ心が軽くなったのだ。

 

お昼、コンビニで袋とストローを断った。いつもならもらうシーンだ。ビニール袋もストローも環境に良くない、だからもらわない、という偽善。「俺いいことしたじゃん」胸がすーっとした。

 

コンビニで誰かがぶつかって棚から落ちた商品を元の場所に戻すという偽善。

 

電車内をころころと転がる空き缶を拾い、降りた駅のホームにあるゴミ箱に入れるという偽善。

 

目の不自由な人の手を引いて横断歩道を渡るという偽善。

 

電車で人に席を譲るという偽善。

 

いろんな偽善を試してみた。いずれも胸がスッとした。そして日常の中で偽善を行うシーンは思ったよりも多くあった。

 

なぜ偽善がストレス解消にいいのか。おそらく誰かの役に立っていると思えるからではないだろうか。日々の仕事ではいったい自分の働きが誰の何の役に立っているのかわからない。誰の役に立っているのかわからないのに、何かをし続けることはかなりのストレスだ。そして、見返り。人はどうしても自分の行動に対して見返りを求めてしまうものだ。

 

しかし偽善は、誰かの役に立っていると思うことができる。偽善だとわかってやっているから見返りを求めない。

 

この見返りを求めないという考えはとても大きいと思うのだ。

 

自分の行動に対して常に見返りを求めていると、とても疲れる。しかし現代はそれを求められる。いわゆる合理性というものだ。やったらやった分だけ何かを得ることが正とされる今、見返りを求めない偽善がとても楽なのだ。

 

偽善と言っても気をつけなければならないことがある。それは偽善によって人より優位に立とうとしないことだ。例えば、信号無視をした人を注意する、ごみのポイ捨てをした人を注意する、これらは偽善ではない。いやむしろこれは本当の偽善になってしまう。

 

ん?じゃあ今まで僕が言っていた偽善は何なのか。

 

偽善には二種類あると思う。一つは今言ったように信号無視をした人を注意する偽善。これがおそらく世の中の一般的な偽善のイメージ、本当の偽善。自分の行動により人を責める行為。最近はリアルでもネットでもこの偽善が多い気がする。人によってはこれをストレスのはけ口にしている人もいる。これはストレスを発散しているようで責めるというストレスを抱え込んでいる。このストレスを発散するために人を責める偽善に走るという負のサイクルが生まれる。

 

僕が言う偽善はそうではない。誰かの役に立っているかもしれないと思いながらも見返りを求めない行為のことだ。自分の行為が大事なのであって他人がどうこうではないのだ。これは言い換えると優しやではないだろうか。他人がどうこうではないと言っておきながら優しさと言うと矛盾しているように聞こえるが、誰か特定の人に対する優しさではなく、世間、社会、自分が生きている世界に対する優しさだ。この優しさが人を責めることはない。

 

この偽善を始めるのに必要なのはちょっとした勇気だ。偽善をする自分に対する恥じらいや「あいつ偽善やってるよ」という人を責める偽善を行う人たちの視線を乗り越える勇気さえあれば、その先には気持ちよさと優しさが待っている。

 

ストレスが溜まっている人は、ぜひ一度この偽善を試してみてほしい。

 

 

 

インターネットという箱を脱ぐ時(安部公房「箱男」を読んで)

●思い出すあの日

もう20年も前のことだ。予備校から代々木駅まで徒歩数分の道のりを歩いていた。緩やかに延びる登り坂の先にある交差点で信号待ちをしているとあることに気づいた。
 
僕を見ている人なんて誰もいない。

九州の地元にいたときには常に誰かの視線を感じながら生活をしていた。町の住人が皆顔と名前を知っている。何かするとすぐにバレ、情報が町の隅々にまで行き渡る。「見られる」というストレスから逃げるように僕は浪人を地元ではなく東京ですることに決めた。そして東京には僕が求めていた世界があった。東京は僕を視線から自由にしてくれた。 

 

●僕も箱男になっていたかもしれない

 

安部公房の小説「箱男」を読んで、今では当たり前になったこの感覚を懐かしく思い出した。

箱男」とは、覗き窓のついた箱を頭からすっぽりとかぶり生活する人のことを言う。本作では箱男である「ぼく」を主人公に話が進む。

箱をかぶっているから当然自分の姿を誰かに見られることはない。そもそも箱男は他人から認識されることがなく、誰の視線からも自由に生活することができる。

もし一般人がひとたび箱男を意識してしまうと、その人は箱男に取り込まれてしまう。箱男に取り込まれるとはどういうことか、それは自分自身が箱男になり社会から消えてしまうということだ。箱男は誰からも見られない自由と引き替えに社会から抹殺されるという代償を負う。

しかし、箱男の「ぼく」にとって、それは理想なのだ。自分の姿を隠し、見たいものを見たいだけ見ることができる。箱の中には自分しかいない。そこから見える景色は自分だけのもの、目の前には自分だけの世界が広がっている。

登場人物のAはそんな箱男に取り込まれた一人だ。彼は自宅前で路上生活を送る箱男を見つけ、その存在に嫉妬を抱く。作品中では「嫌悪と腹立ち」「おびえに似たもの」とAの感情を表現しているが、おそらくAが抱いた感情は嫉妬だと思う。そして箱男を追っ払うのだが、その後箱男の誘惑に勝てずに自分自身が箱男になり姿を消してしまうのだ。

 「ぼく」はAのことをこう表現する。

Aにもし何か落ち度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑うことは出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市ーー扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人同士だろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別は許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街ーーのことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。

 

まさにAは僕自身だ。そして「そんな街」とは僕にとって東京のことだ。もし僕が浪人時代に箱男を目撃していたらきっとその誘惑に負けて箱男になっていたに違いない。


●ネットという箱

 

「ぼく」は箱をから覗く理由をこう述べている。


あらゆる場所を覗いてまわりたい。しかしそうもいかずに思いついた携帯用の穴が箱だったのかもしれない。逃げたがっているような気もするし、追いかけたがっているような気もする。どちらなのだろう。

 

他人の視線を意識しすぎた成れの果て、それが箱男なのかもしれない。他人の視線から逃れるために「ぼく」が辿り着いたのが箱だった。そして僕自身が辿り着いたのが東京だった。そして東京に住む人たち、いや、現代人と言ってもいい、僕を含めた現代人が辿り着いた箱がインターネットだ。


インターネットの中では誰もが箱をかぶり、他人の生活を覗き見ることが出来る。しかし、箱の中や東京と違って、見る側になるだけではなく、見られる側にもなるリスクがある。

そこで考えた。本当の自分を見せる必要はない。嘘の自分を見せればいい。見るときには本当の自分、見られる時には嘘の自分をうまく使い分けながら僕たちは箱生活を送っている。そこには箱男と同様に自分だけの世界が広がっている。

 

●箱とインターネットの違い

 

先ほど箱男になると社会から抹殺されると書いたが、その理由の一つがニュースだ。箱男はニュースを読まない。すべての情報をシャットアウトし生活を送っている。「ぼく」は、ニュースとは自分がまだ生きていることを確認するためのものだ、と言う。箱男はニュースを手放すことで死生観をも手放し社会から自分の存在を消すことに成功したのだ。

インターネットという情報の洪水の中でニュースを手放すことは不可能だ。しかし情報に触れているからといって僕たち現代人がはっきりとした死生観を持っているだろうか。
この小説が書かれた頃のニュースと現代のニュースでは意味や役割、質が違う。現代のインターネットに溢れている情報はすべて事実とは限らない。嘘の自分を人に見せるのと同じように嘘の情報が蔓延している。ネットがインフラのようになり現実世界よりもむしろ「社会」になりつつあるが、そこにある情報には現実感がない。

箱男は情報を遮断することで現実から目をそらすことができた。僕たちは情報に触れることで現実から目をそらしているとも言える。

箱男にとっての現実とは、自分の耳で聞き自分の目で見ることだが、今や僕らの現実はネットの中にあると思われている。自分の目で見た、自分の耳で聞いたと言ってもそれはネットに流れている情報だ。それを僕たちは現実と思い込んでいる。

箱男と現代人の違いは何が現実で何が現実でないかの認識ができているかどうかだ。現代人はは現実とそうでないことの境界が曖昧になっている気がする。

「ぼく」はこうも言っている。

ぼくは自分の醜さを心得ている。他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。似たような衣装、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。
誰だって見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビが売れているのは、皆自分の醜さを自覚しているから。自分は醜いから見られる側の人間ではない、だからテレビで見る側になる。

 

テレビ、ラジオしかなかった時代は確かにそうかもしれない。しかしネットはその感覚を変えた。ネットは誰でも見る側になり見られる側になれる。そこで「自分の醜さを心得ている」人はいない。見られても平気な人が多い。むしろ醜さまでも正当化できてしまうほどに現実を失い自分だけの世界に入り込んでしまっている。

見る側と見られる側の関係性が崩れたのだ。

「ぼく」は言う。


見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。

 


現代は見ることも、見られることも憎悪を生む。見ることの愛、見られることの傷みを僕たちは忘れかけている。

 

●箱をかぶり続けた先にあるもの

 

小説の中で「ぼく」は一人の女性との出会いをきっかけに箱を脱ぐことを決心する。その女性を手に入れたい、裸を見たいと願ったのだ。

箱に入っていれば一人だけの世界、見たいものを好きなだけ見られる世界に浸っていられる。しかし「ぼく」は、箱に入っていては本当の現実を掴むことはできないとはじめから知っていたのだ。箱の中は現実ではないのだと知っていたのだ。現実への回帰、そして箱の中という絶対的な孤独からの脱出、この機会を「ぼく」はずっと待っていたのだ。

しかし「ぼく」は箱を脱ぐタイミングが少し遅かったのかもしれない。箱を脱いだ「ぼく」を待っていたのは覗かれる側に回ることだった。覗く側から覗かれる側になった「ぼく」はいったいどちらが「ぼく」なのかわからなくなってしまう。箱の中という仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなってしまっていたのだ。

真偽もわからない情報の霧に包まれ現実感がなくなり他人の視線すら気にしない利己的で孤独なネットという仮想現実に住む僕たちはどうだろう。

僕たちが見ている僕たちは本当に僕たちなのか。いつか「ぼく」のようにネットという箱を脱ぎ捨て現代に戻らなければならない時がきっとやってくる。その時箱を脱ぐことができるだろうか。箱を脱いでも僕たちは僕たちだとはっきりと言えるだろうか。

当たり前のことをもう一度考え直すー観察の練習(菅俊一)を読んでー

観察の練習


 観察とは何か。

 本書の中で著者はこう言っている。

観察とは、日常にある違和感に気づくこと。


 この本を読んで僕が思った観察はこうだ。

観察とは、当たり前のことをもう一度考え直すこと。

 これは著者の言う「違和感」に気づくための過程とも言える。目の前にある当たり前のことをもう一度考える。すると違和感に気づくのだ。

 本書には著者が気づいた「違和感」が八つの章に分けて、写真一枚と短い文章で五十六個収録されている。

第一章:痕跡から推測する
第二章:先入観による支配に気づく
第三章:新しい指標で判断する
第四章:その環境に適応する
第五章:世界の中から構造を発見する
第六章:理解の速度を推し量る
第七章:リアリティのありかを突き止める
第八章:コミュニケーションの帯域を操作する

 目次から難しく感じるかもしれないが、扱っている題材はどれも日常にあるものばかりだ。しかし、読んでいて「なるほど」と思ってしまう。それは自分が「違和感」に気づかずに、そして気づけずに生活しているからだ。
 中でも僕がはっとしたのがこの三つだ。

1-2:無意識に取る最短経路
5-5:エラーの生まれ方
6-4:「使用禁止」の伝え方

 例えば「無意識に取る最短経路」は、「歩道とその境界線にある芝生」を写した一枚の写真が違和感の元なのだが、いったい著者が何に違和感を覚えたのか分からない。よく見てみると、歩道との境界線にある芝生が曲がり角の部分だけはげていることぐらいはわかる。芝生がはげることなんてよくあることだ。しかしここで立ち止まり、芝生がはげているという当たり前をもう一度考えてみる。すると違和感に気づくのだ。なぜここだけはげているのか。それは人が角を曲がるときに無意識に最短経路を通ろうとして芝生に立ち入ってしまうためだ。言われてみればなんてことないのだが、これに気づけない。これが観察だ。

 


●桶にまつわる観察

 最近「これが観察か」という出来事に遭遇した。

 とある銭湯でのことだ。サウナから出た僕は汗を流そうと水風呂の縁にあるこのような形状の風呂桶を手に取った。

 

ケロリン 手おけ 00581

ケロリン 手おけ 00581

 


 すると水がすでに貯められていた。次に使う人のためにわざわざ貯めておいたのだろうか。ありがたいのだが、理由のない気持ち悪さを感じてしまい、その水を一度捨て、自分で掬って体にかけ水風呂に入った。桶は空のまま縁に置いておいた。すると水風呂の前を通りこれからサウナに入ろうとしていたおじさんが桶に水を貯め縁に置いてからサウナに入ったのだ。どうやらこの銭湯では水風呂に入る人のために桶に水を貯めておくのがマナーらしい。そんなことを考えていると、サウナから出てきた別のおじさんが桶に入った水を捨て(!)自分で掬い汗を流した。そして使い終わった桶に水を貯めてから水風呂に入ってきたのだ。

 その後も水風呂の様子を観察していると皆貯めてある水は使わずに、しかし使い終わったら桶に水を貯めて縁に置くのだ。

 ふつふつと僕の中で「違和感」が沸いた。
 
 あの水は、次に使う人のために貯めているのではないのかもしれない。水を貯めるという行為は本来水を使うために行われる行為だ。しかしここではそうではない。

 そして僕は観察の終着点に辿り着いた。

 なぜ水を貯めていたのか。それは、桶が倒れないための重しだったのだ。この形状の桶は倒れやすい。空のままだと水風呂の出入りの際に少し当たっただけでも倒れてしまう恐れがある。水を貯め重しにすることでそれを回避していたのだ。

 


●観察を難しくするもの

 なぜ観察が難しいと思うのか。人は自分に必要な部分だけを見て生きているからだ。大人になればなるほど、様々な経験をすればするほど必要最小限の、効率を重視した物の見方を覚える。そのたびに観察という概念がそぎ落とされていく。自分にとって当たり前になっていることや(何が当たり前なのかさえも気付けないことが多いのだが)当たり前の価値観、世の中のシステムといったものを疑い考え直さないと「違和感」には気づけない。

 そして最も難しいのは、観察は問いも答えも自分で用意しなければならないということだ。これだけ情報が溢れた世界で自ら問い自ら答えることはそう簡単ではない。自分のものではない誰かの価値観が自分の中に貯まりすぎている人にとってなかなか難しいだろう。


●観察は人間の特権

 観察の最大の特徴は、観察は人間にしかできないということだ。効率性や最適解、エラーを探すことが目的のコンピューターにはここでいう「違和感」を見つけることはできないだろう。また、こういった考え方を持つ人間も観察には向いていない。そしてそういう人はきっとこう言う。

「観察がいったい何の役に立つのか」

 そんな人には本書の最後にある著者の言葉を贈ろう。

 

さあ、観察を練習しよう。そして世界に溢れている面白さに気づいていこう。それさえできれば、きっと前よりも少しだけ、生きることが楽しくなるはずだ。

 

 

観察の練習

観察の練習