本とゲームとサウナとうんち

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書かずにはいられない、それが小説家だ。ー鳩の撃退法(佐藤正午)を読んでー

 佐藤正午は読ませる作家だ。読ませるとはどういうことか。例えるなら「わんこそば」のようなものだ。食べ終わったと思ったら次のそばがお椀に入れられている。そして口に運ぶ、するとまたそばが入れられる。もういいだろうと思うと次の文章が待っている。そして読む。そしてまたこれくらいでいいだろうと思うと次の文章が待っている。読まざるを得ない。そして知らず知らずのうちにどんどんお椀が積み上がっていく。こんなに読むつもりはなかったのに、いつのまにか読まされている。食べても食べても終わりがないのと同じように、読んでも読んでも終わりがない、それが佐藤正午の小説だ(もちろん、小説に終わりはある、例えればの話だと思ってもらいたい)。

 

 本作の構成は少し複雑だ。


 冒頭は幸地秀吉の目線で物語りが進む。主人公は幸地秀吉という男かと思うと、途中から津田伸一の語りへと変わる。津田伸一とは、過去に小説家として活躍し直木賞を受賞するもその後落ちぶれ現在は地方のデリヘル送迎ドライバーをしながら小説(本作)を執筆しているこの物語の主人公だ。冒頭は津田が書いた小説の一部になっている。つまり「鳩の撃退法」という小説、ならびに「津田伸一」というキャラクターを作り出しているのは佐藤正午だが、作中の文章を書いているのは津田なのだ。


 この落ちぶれた作家である津田が自分が見聞きした事実を元に書く小説を読者は読むことになる。作中の中で起こる一家三人失踪事件や偽札事件といった「事実」が複雑に絡み、地方から東京へと場所を移し、時系列も入り組み多くの伏線を落としながらそして最後は見事にそれらを回収し結末を迎えるという物語として文句のつけようがないのだが、作中の文章すべてが津田が書く小説とは限らない。津田が小説を執筆する過程や思考も同時に書かれていたり、津田が日記のように「事実」を記録している部分もあったりするので読んでいるとどこまでが「事実」(作中で実際に起こったことという意味の事実)でどこまでが小説なのか曖昧になる。しかし、それこそが津田が(あるいは佐藤正午が)この作品で狙っていることなのだろう。事実と小説の関係性、事実としての物語と小説としての物語はどこかどう違うのか、作家はそれをどのように考えて書くべきなのか。この作品は津田(あるいは佐藤正午)が小説の可能性を探り、そして小説とは何か、どうあるべきか、といった小説の本質について語った作品としても読むことができる。


  小説の世界と現実の世界の境界をどこに設定するのか、現実に起こった出来事を小説にする際に何を書き何を書かないのかといった津田の制作過程は読んでいてとても興味深い。そして津田は言う、何を書いて何を書かないかそれは作家の自由だ。現実の世界では事実は書き換えることができないが、作家は事実を曲げることができ、「事実」を心ゆくまで書き直すこともできると。


 小説家が作品を執筆する際にまったくのゼロから書くということはおそらくないと思う。これまでの経験や出会った人々から何かしらかのインスピレーションを受けて書き始めるだろう。自分が経験した事実をどこまで曲げて作品に落とし込むのか。あるいは事実で得た思考をどこまで物語へと飛躍できるか。小説家にはこの能力が必要になる。物語は事実のみからなっているわけではなく、そこにあった事実と、可能性としてありえた事実とからなっていると津田は言う。「可能性としてありえた事実」をどこまで考えることができるかというのが物語のおもしろさになり小説家の腕の見せ所にもなるのだろう。

 

 物語を「可能性としてあり得た事実」にまで押し上げるには細部の描写も必要になる。一見物語と関係のないような描写、長々としたシーンの描写であってもそれがあるのとないのとでは読者が感じる「あり得た事実」感が変わってくる。人物や風景やシーンの描写をじっくり読むことで読者にとってそれが次第に事実へと近づいて行く。その描写が真実を補強する書き方なのかダラダラとした作家の自己満足な表現なのか、その質もまた小説家の力量の差になるのだろう。


 長い小説には長い意味がしっかりとあるのだ。

 

 そしてもうひとつ、津田がこだわっているのが小説と読者の関係性についてだ。小説家はなぜ小説を書くのか。落ちぶれて出版社との交流もない津田はなぜ小説を書くのか。誰のために小説を書いているのか。作中でこのような自問自答を何度も繰り返す。人に読ませる小説と人が読まない小説の違いとは何か。人に読んでもらえない小説を書く意味はあるのか。読者のいない小説をなんのために書くのか。誰にも読まれない小説は紙くずも同然か。結局彼自身にも分からない。小説を誰に向けて書いているのか。誰のために語っているのか。


 小説に限らず文章とはそういうものかもしれない。手紙は明確な読者がいるがそれ以外の文章とは誰に向けて書かれるものなのだろうか。


 僕も仕事で記事を書いている。そのほとんどが広告の記事だ。書いていていつも思う。誰のために書いているのなのだろうか。クライアントのためか、読者のためか。読者とは誰だ。この記事を誰が読むのだろうか。読む人を明確にイメージできない文章は書いていて不安しかない。ネットの記事なら「いいね」やリツイートなどの反応があるだろうと思われるかもしれないが、僕が書いているメディアはクリック数しか見ることができない。この記事を読んで読者がどう思ったのかを知ることはできない。そもそも最後まで読んでいるかもわからない。自分のための文章でもないそんな文章をなぜ僕は書いているのか時々意味がわからなくなる。答えを出すとすれば、それが仕事で日々生きるため飯を食うためでしかない。


 小説もそうなのだろうか。津田はこのことに関して明確な答えを示していないが、印象的な台詞を残している。


「いったん書き方をおぼえてしまった以上、もう書かずにいられないんだよ。それが小説家の生きる道なんだよ。」


 書かずにはいられない。読者がどうとか、意味がどうとかではなく、書かずにはいられないのが小説家というものなのだろう。


 このブログも誰のために書いているのか。正直読者なんて考えていない。強いて言うなら自分のために書いている。自分に読ませるために書いている。普段の仕事が自分のための文章ではないその反動のようなものだと思う。

 

 僕も書かずにはいられないのだ。ただ、まだ書き方を覚えていないだけなのだ、そう信じて書き続けるしかない。