本とゲームとサウナとうんち

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インターネットという箱を脱ぐ時(安部公房「箱男」を読んで)

●思い出すあの日

もう20年も前のことだ。予備校から代々木駅まで徒歩数分の道のりを歩いていた。緩やかに延びる登り坂の先にある交差点で信号待ちをしているとあることに気づいた。
 
僕を見ている人なんて誰もいない。

九州の地元にいたときには常に誰かの視線を感じながら生活をしていた。町の住人が皆顔と名前を知っている。何かするとすぐにバレ、情報が町の隅々にまで行き渡る。「見られる」というストレスから逃げるように僕は浪人を地元ではなく東京ですることに決めた。そして東京には僕が求めていた世界があった。東京は僕を視線から自由にしてくれた。 

 

●僕も箱男になっていたかもしれない

 

安部公房の小説「箱男」を読んで、今では当たり前になったこの感覚を懐かしく思い出した。

箱男」とは、覗き窓のついた箱を頭からすっぽりとかぶり生活する人のことを言う。本作では箱男である「ぼく」を主人公に話が進む。

箱をかぶっているから当然自分の姿を誰かに見られることはない。そもそも箱男は他人から認識されることがなく、誰の視線からも自由に生活することができる。

もし一般人がひとたび箱男を意識してしまうと、その人は箱男に取り込まれてしまう。箱男に取り込まれるとはどういうことか、それは自分自身が箱男になり社会から消えてしまうということだ。箱男は誰からも見られない自由と引き替えに社会から抹殺されるという代償を負う。

しかし、箱男の「ぼく」にとって、それは理想なのだ。自分の姿を隠し、見たいものを見たいだけ見ることができる。箱の中には自分しかいない。そこから見える景色は自分だけのもの、目の前には自分だけの世界が広がっている。

登場人物のAはそんな箱男に取り込まれた一人だ。彼は自宅前で路上生活を送る箱男を見つけ、その存在に嫉妬を抱く。作品中では「嫌悪と腹立ち」「おびえに似たもの」とAの感情を表現しているが、おそらくAが抱いた感情は嫉妬だと思う。そして箱男を追っ払うのだが、その後箱男の誘惑に勝てずに自分自身が箱男になり姿を消してしまうのだ。

 「ぼく」はAのことをこう表現する。

Aにもし何か落ち度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑うことは出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市ーー扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人同士だろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別は許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街ーーのことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。

 

まさにAは僕自身だ。そして「そんな街」とは僕にとって東京のことだ。もし僕が浪人時代に箱男を目撃していたらきっとその誘惑に負けて箱男になっていたに違いない。


●ネットという箱

 

「ぼく」は箱をから覗く理由をこう述べている。


あらゆる場所を覗いてまわりたい。しかしそうもいかずに思いついた携帯用の穴が箱だったのかもしれない。逃げたがっているような気もするし、追いかけたがっているような気もする。どちらなのだろう。

 

他人の視線を意識しすぎた成れの果て、それが箱男なのかもしれない。他人の視線から逃れるために「ぼく」が辿り着いたのが箱だった。そして僕自身が辿り着いたのが東京だった。そして東京に住む人たち、いや、現代人と言ってもいい、僕を含めた現代人が辿り着いた箱がインターネットだ。


インターネットの中では誰もが箱をかぶり、他人の生活を覗き見ることが出来る。しかし、箱の中や東京と違って、見る側になるだけではなく、見られる側にもなるリスクがある。

そこで考えた。本当の自分を見せる必要はない。嘘の自分を見せればいい。見るときには本当の自分、見られる時には嘘の自分をうまく使い分けながら僕たちは箱生活を送っている。そこには箱男と同様に自分だけの世界が広がっている。

 

●箱とインターネットの違い

 

先ほど箱男になると社会から抹殺されると書いたが、その理由の一つがニュースだ。箱男はニュースを読まない。すべての情報をシャットアウトし生活を送っている。「ぼく」は、ニュースとは自分がまだ生きていることを確認するためのものだ、と言う。箱男はニュースを手放すことで死生観をも手放し社会から自分の存在を消すことに成功したのだ。

インターネットという情報の洪水の中でニュースを手放すことは不可能だ。しかし情報に触れているからといって僕たち現代人がはっきりとした死生観を持っているだろうか。
この小説が書かれた頃のニュースと現代のニュースでは意味や役割、質が違う。現代のインターネットに溢れている情報はすべて事実とは限らない。嘘の自分を人に見せるのと同じように嘘の情報が蔓延している。ネットがインフラのようになり現実世界よりもむしろ「社会」になりつつあるが、そこにある情報には現実感がない。

箱男は情報を遮断することで現実から目をそらすことができた。僕たちは情報に触れることで現実から目をそらしているとも言える。

箱男にとっての現実とは、自分の耳で聞き自分の目で見ることだが、今や僕らの現実はネットの中にあると思われている。自分の目で見た、自分の耳で聞いたと言ってもそれはネットに流れている情報だ。それを僕たちは現実と思い込んでいる。

箱男と現代人の違いは何が現実で何が現実でないかの認識ができているかどうかだ。現代人はは現実とそうでないことの境界が曖昧になっている気がする。

「ぼく」はこうも言っている。

ぼくは自分の醜さを心得ている。他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。似たような衣装、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。
誰だって見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビが売れているのは、皆自分の醜さを自覚しているから。自分は醜いから見られる側の人間ではない、だからテレビで見る側になる。

 

テレビ、ラジオしかなかった時代は確かにそうかもしれない。しかしネットはその感覚を変えた。ネットは誰でも見る側になり見られる側になれる。そこで「自分の醜さを心得ている」人はいない。見られても平気な人が多い。むしろ醜さまでも正当化できてしまうほどに現実を失い自分だけの世界に入り込んでしまっている。

見る側と見られる側の関係性が崩れたのだ。

「ぼく」は言う。


見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。

 


現代は見ることも、見られることも憎悪を生む。見ることの愛、見られることの傷みを僕たちは忘れかけている。

 

●箱をかぶり続けた先にあるもの

 

小説の中で「ぼく」は一人の女性との出会いをきっかけに箱を脱ぐことを決心する。その女性を手に入れたい、裸を見たいと願ったのだ。

箱に入っていれば一人だけの世界、見たいものを好きなだけ見られる世界に浸っていられる。しかし「ぼく」は、箱に入っていては本当の現実を掴むことはできないとはじめから知っていたのだ。箱の中は現実ではないのだと知っていたのだ。現実への回帰、そして箱の中という絶対的な孤独からの脱出、この機会を「ぼく」はずっと待っていたのだ。

しかし「ぼく」は箱を脱ぐタイミングが少し遅かったのかもしれない。箱を脱いだ「ぼく」を待っていたのは覗かれる側に回ることだった。覗く側から覗かれる側になった「ぼく」はいったいどちらが「ぼく」なのかわからなくなってしまう。箱の中という仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなってしまっていたのだ。

真偽もわからない情報の霧に包まれ現実感がなくなり他人の視線すら気にしない利己的で孤独なネットという仮想現実に住む僕たちはどうだろう。

僕たちが見ている僕たちは本当に僕たちなのか。いつか「ぼく」のようにネットという箱を脱ぎ捨て現代に戻らなければならない時がきっとやってくる。その時箱を脱ぐことができるだろうか。箱を脱いでも僕たちは僕たちだとはっきりと言えるだろうか。