本とゲームとサウナとうんち

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仕事も小説も人であるけれど ーとにかくうちに帰ります(津村記久子)を読んでー

 朝起きて顔を洗って朝ご飯のお茶漬けを食べて天気予報を確認して歯を磨いて家を出て電車に乗って職場に向かう。職場に着いたらパソコンを開いて文字を書き定時になったのを確認したら駅までの帰り道あるいはプラットホームで会社の人と鉢合わせすることがないようにその三十分後に会社を出る。そして満員電車に揺られて帰宅する。こんな生活を今の家に引っ越してから一年ほど続けている。朝八時に家を出て夜帰宅するのは二十時だ。一日の半分を仕事のために費やしている。一日の半分を仕事に費やしているにもかかわらず、帰宅して今日何があったかと思い出すと頭の中には何も残っていない。ただしんどかったなあという絶望と呼ぶには過ぎるなんともいえない切なさと未来のなさだけが残っている。

 なぜいきなりこんなことを考えたのかというと、津村記久子の「とにかくうちに帰ります」が職場を舞台にした人間模様を描いた小説だからだ。人間模様と言っても社内恋愛とかどろどろの不倫とか出世のための政治とかそういうものではなく、職場での何気ない出来事や何気ないコミュニケーションが描かれている。

 読み終わってみて真っ先に考えたのが自分の平日の一日だったのだ。この小説のように自分の一日を文章にすることができるだろうか、自分の一日から何か物語りを生み出すことができるだろうか、そう考えてみたのだが、結果、何も生み出すことができなかった。しかし、津村氏はこのように小説を生み出している。ひとつひとつの話は取るに足らないものだが、取るに足らない一日を我々は過ごしており、そこにしか自分たちの「生」はない。取るに足らないことを描けるということは一日を「きちんと生きている」ことなのだ。ただぼんやりとではなく、人を見て、人との会話を大切にして、つまり人との関わりを大切にするということ。

 一日を振り返って何も生み出せない僕は職場での人との関わりをないがしろにしているのだろうか。そうだ、その通りだ。職場では僕は仕事以外の会話をほとんどしない。会社には月に一度部署の垣根を越えてランチをするシャッフルランチというイベントがあるが、それにも参加していない。なぜなら、人と話すのが億劫であることもあるが、会社の人たちと話をしていてまったく楽しさを感じないからでもある。営業の話すことは二言目にはお金の話だ。ライターである僕としては記事の中身をどうるすかとか、クライアントの要望は何かとか、そういうことを話したいのだが、なるはやで始めたいとか、今月中に出稿しないと予算がやばいとか、つまり仕事のベクトルが違う。そういう人たちと話をする、そういう人たちに関心を向けるのはなかなか難しい。


 たしか津村氏は仕事を持つ作家、つまり兼業作家だったはずだ。しかしこの小説は僕のような感覚で人を見るのではなく、きちんとひとりの個人として職場の人を見ている。それは熱心に観察しているように思えるが、実はとても冷静だ。自分の仕事を、自分の周りで働く同僚を離れたところから冷静な目で見つめている。


 この小説のもう一つの特徴は誰もかっこつけていないということだ。肩書きや仕事の内容が詳しく説明されているわけではないが、登場人物はみなかっこつけることなく、自然体で自分自身の毎日を生きている。表題作である「とにかくうちに帰ります」はゲリラ豪雨が降る中を三人の大人と一人の子供が自宅まで(厳密に言うと駅まで)歩く話だ。登場する大人はいずれも会社員であるが、仕事や役職などは関係ない。ただ、家に帰りたいという思いを抱いた人たちだ。


 印象に残った文章がある。


”家に帰って食べたいものを、マッチ売りの少女のように数える。玄関についてレインコートを脱ぎ、化粧を落として床に座ったら、自分はしみじみ泣くだろう。そこにいることに、傘をささなくていいことに、屋根があることに。明日が休みだというのはきっと二の次だ。風呂に入ってスエットに着替えて買ったものを食べてすぐに歯を磨いて、今日は眠ろう。それ以外は何もなくていい。”(本書P181)


 仕事をしていても社会人でも大人でもこれでいい。かっこつける必要はない。僕が勤める会社の人間はどこかかっこつけて仕事をしている。知らないことを素直に知らないと言えず強がって、それって実はすごくかっこ悪い。


 これを読み終わって思ったのはやっぱり小説って人だよな、ということだ。ずいぶんと抽象的だが、現実の世界では職場での人と為りはあまり信用できない。職場外での言動がその人そのものなのだ。この小説に出てくる人たちは、一部そうではない人もいるが、たいていの人たちはかっこつけることなく仕事だからとかプライベートだからとかそういうつまらないことを考えることなく過ごしている。そんな当たり前と思えることが現実の世界ではなかなかできない。だからこの小説は魅力的なのだ。 

 一日の半分を会社のために使っている。それはつまり、自分ではない。職場の外にこそ自分がある。逆を言えば会社で嫌なやつも会社の外では良いやつかもしれないということになる。仕事をしているときと、していないときで人は皆自分を使い分けている。


 人間って器用だと思う。と同時にそれってしんどいよな、とも思う。

考えない人は簡単にコントロールされてしまう ー1984年(ジョージ・オーウェル)を読んでー

 「1984年」は1949年にジョージ・オーウェルによって書かれた小説だ。タイトルの通り、1949年当時からみた未来である1984年の世界を描いている。

 とある革命によって民主主義が崩壊し、社会主義全体主義が色濃くなった世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアという三つの地域に分断された。本書ではオセアニアが舞台となっており、このオセアニアを支配するのが「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる指導者だ。

 この本をどういう視点で語ればいいのだろうか。僕の頭に浮かんだは「監視」「嘘」「言語」という三つのキーワードだ。

 まずは監視について。本書の中で「テレスクリーン」という装置が出てくる。これは屋内だろうが屋外だろうがどこにでも設置されており人々を視覚的、聴覚的に監視している。政府にとって不利益な言動をとらないか住人は常に監視されているのだ。プライバシーや個人情報という概念はない。そして誰もこのことに異を唱えない。なぜならそんなことをしたら党に消されてしまうからだ。そして監視しているのはテレスクリーンだけではない。人が人を監視している。それも他人だけでなく、子が親を、親が子を監視し、不穏な動きがあれば党に通報する。そんな社会では誰も本音を吐き出すことはできない。監視は物理的に人の動きを制限でき、そして言葉を監視することで思考までも制限できる。思考の制限は一種のマインドコントロールとも言える。権力者にとってマインドコントロールほどほしい能力はないだろう。

 現代にはテレスクリーンのような装置は存在しないが、最近は監視カメラがいたるところに設置されている。これは防犯目的であり、国民を監視するためのものではない。しかし監視という能力は、人を支配する上で非常に強力な武器になる。監視されている側がそれに気づいていようがいまいがおかまいなしに。というよりむしろ監視される側がそれに気づいていなければなお一層その力は増す。本書のように監視されていると分かっていればそれなりに対策もできるが、監視されていることを意識する必要のない現代では、その力は権力を持つ者にとって必要不可欠の能力になっていると思う。

 二つ目のキーワード「嘘」について。一言で「嘘」と書いたが、これは嘘と分かっていながら嘘をつき、嘘をついたことを認識しつつもそれすらも嘘にしてしまうという行為だ。これを本書では「二重思考」と読んでいる。二重思考を本書の言葉で説明するとこうだ。

「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいう」(本書P328より)

 たとえば、

「都合が悪くなった事実は全て忘れること、その後で、それが再び必要となった場合には、必要な間だけ、忘却の中から呼び戻すこと、客観的現実の存在を否定すること、そしてその間ずっと、自分の否定した現実を考慮に入れておくこと」(本書P329より)

 または

「党の規律が要求するのであれば、黒は白と言いきることのできる心からの忠誠心を意味する。しかしそれはまた、黒を白と信じ込む能力でもあり、更には、黒は白だと知っている能力であり、かつてはその逆を信じていた事実を忘れてしまう能力のことである」(本書P325より)

ということだ。

 政治家の発言や行動をイメージしてもらえればわかりやすい。党の規律に従うために、それが明らかに間違いである、嘘であると分かっていてもそれを認めない。しかし、それが間違いであることが明白なことは十分に理解している。ただひたすらに「記憶にございません」だの「書類が残っていません」だの言って自分の正当性を主張する。これも一種の権力によるマインドコントロールといえる。白を黒と思い込む、思い込ませる。そして白が黒になり、記録される。

 会社にもこういう人間はいる。二重思考を使う人間に多いのが楽観主義者だ。仕事のトラブルやピンチを重くとらえずになんとかなると軽く考える人がこの二重思考を使っているように思う。つまり仕事の仕方に客観性がないのだ。こういう人間と仕事をすると本当に疲れるし、二重思考を平気で使うその神経に恐怖を感じる。

 三つ目のキーワード「言葉」はこの小説で僕がもっとも関心を抱いたテーマだ。本書の舞台であるオセアニアでは、かつては英語が公用語だった。だったという過去形の通り、英語は「オールドスピーク」と呼ばれ今は「ニュースピーク」という英語を元に開発された言語が公用語となっている。とはいえ、このニュースピークはまだ完成しておらず、人々の多くがまだ英語を使っている。

 ニュースピークの特徴はその語彙の少なさにある。本書の中でニュースピークの辞書の編纂に関わっている人物がこう言っている。

「おそらく君はわれわれの主たる職務が新語の発明だと思っているだろう。ところがどっこい、われわれは言葉を破壊しているんだ」(本書P80より)

 この台詞にあるように、ニュースピークは様々な意味を持つ言葉を一語に集約したり、略語を用いたりすることでこれまで使っていた言葉を廃棄し、できるだけ少ない語数で足るような言語になっている。たとえば「寒い」の反対は「暖かい」だが、ニュースピークでは「非寒い」となる。つまり語数を減らすとともに、言葉の「意味」や「概念」を減らしているのだ。

「必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙句、忘れられることになるだろう」(本書P82より)

 なぜニュースピークなる新言語が開発されているのか、それは思考の範囲を狭めることにある。言葉の持つ意味を減らし、限定的にすることで、人の思考の範囲さえも限定的にし、さらに思考を表現する言葉をなくすことで党に背く思考そのものをなくしてしまおうというわけだ。

 これはいったいどういう感覚だろうか。例えば日本の公用語が英語になったとする。このとき「おつかれさま」という日本語を表現する英語はないので仕事終わりに同僚に書ける言葉はすべて「グッバイ」に置き換わってしまう。それで何か不自由を感じることはないだろう。だが「おつかれさま」という言葉特有の概念、相手をおもいやる気持ちという感覚はなくなってしまう。とくに日本語は言語の中でも表現の幅が広い言語だ。その幅が狭まることで思想や思考に影響を与えることは容易に想像できる。

 こんなニュースピークみたいなことが起こるはずがないと誰もが思うだろう。もちろん、誰か特定の人物が主導して言語を無理矢理に変えるということは起こらないかもしれないが、人類自身の手によっていつの間にか言語が変化し、その結果なくなっていく感覚、思想、思考などはあるのではないだろうか。例えば学校で学んだ古典がそうだ。「をかし」など当時は一般的に使われていた(もちろん口語ではなく文語ではあるが)。その「をかし」という感覚と、現代の日本語訳である「趣がある」という言葉の感覚には微妙に違いがあるはずだ。それは言葉では説明できない感覚的なものだと思う。このように言葉が変わっていくことで、人の美意識や価値観までも変わっていく。

 ニュースピークでは略語もよく使われる。略語は現代でもよく使われている。言葉を略すことであやふやだった意味が明確になることがある。しかし、言葉を省略することは良いことばかりではない。とくに名称の省略について本書にはこう書いてある。

「名称を省略形にすると、元の名称にまとわりついていた連想の大部分をそぎ落とすことによって、その意味を限定し、また巧妙に変えることになると看守されたのである。」(本書P470より)

 例えば「イクメン」という言葉がある。これは「育児に協力的な夫」のことを指す言葉として使われるが、育児に協力的な夫をただ「イクメン」という四文字で呼んでしまって良いものだろうか。そもそも育児に協力的な夫とはどのような夫のことか。「イクメン」という略語に落とし込んだときに、夫が育児に関わるうえでの様々な問題点をそぎおとし、理想的な夫という限定的な意味だけが一人歩きし始める。そしてその限定的な意味を人に強要する。ほかにも「草食男子」「負け組」や「サブカル」「オタク」なんかもそうだろう。

 言葉は永遠に変化しないというのは幻想であることは分かっている。しかしこれだけ情報が氾濫している時代に言葉がないがしろにされているような気がしてならない。若者は「りょうかい」のことを「り」とひとことで表現する。これを言葉というだろうか。思考というだろうか。これは記号じゃないだろうか。本書の中ではビッグ・ブラザーの指導の下で言葉の破壊が行われているが、現代では僕たち自身で言葉を破壊し自ら思考の範囲を狭めているような気がする。あるいは考えることを面倒くさがる人種が増えてきているのかもしれない。何事もわかりやすい方がいいが、人間はそれほど単純ではないはずだ。

 AIが書いた小説か人間が書いた小説か見分けがつかなくなる時代がくるなんて言われるが、それはAIの進化ではなく、人間の退化だと思っている。人間が人の言葉を理解できなくなるときが来るのだろうか。そして人が話した言葉をAIに翻訳してもらう時代が来るのだろうか。言葉がその通りの意味しかもたなくなり、行間を読む、人の心を推し量るという感覚がなくなる時代がそこまで来ているような気がしてならない。

 一見複雑に見える今、人は単純になりつつあるのではないだろうか。スマホやパソコンなどのツールにより、自分の行動範囲は限られるようになった。それはすなわち思考範囲も限定的になったと同じだ。国のこと、政治のこと、自分に関係のないことは知らなくても生きていける。悩むことはあっても考えながら生きる必要のない時代。人の真似ばかりしてこれが自分の人生と思い込んでいる人々が多数いる時代。

 言葉に関心を持たず考えることをやめ本能だけで生きる人間をコントロールするのはたやすい。

 だらだらと書いてしまったが、これら三つのキーワードはいずれも権力による支配を語るうえで必要不可欠な三つだと思った。それは今も昔も変わらず権力を手に入れた人たちは我々を監視し、見え透いた嘘を平気でつき、そして言葉巧みに自分たちの都合の良い方向へと導く。しかし、権力のその先に何があるのだろうか。国や地域を支配し、自分の思い通りの政治を行うことで誰が幸せになるのだろうか。これは国という単位だけでなく、社会、会社の中でも同じことが言える。

 人が人としての喜びを感じるのが権力を握たときのみだとしたらなんとも悲しい。しかし、現代の成功はお金と権力で語られる。これはどんなに生き方や価値観が多様化しても変わらない気がする。幸せに生きるということと権力が強く結びついてしまう世界はとても生きにくい。

 権力とは何か、権力者はなぜ権力を欲しがるのか、人はなぜトップを目指すのか、そこに答えはない。権力とお金は「ただ欲しい」ものなのだろう。これは人類が滅亡するまで続く。

笑って死ぬのはいいことか ー「電車道」(磯崎憲一郎)を読んでー

 これは二人の男の生き方を描いた小説だ。

 ひとりは四十歳を目前にしてそれまで営んでいた薬屋や家族を突然捨て山に籠もる生活を始める。その土地で知り合った子供たちに様々なことを教えているうちにそこで私塾を開き、後に学校の校長になる。

 もう一人は銀行員を辞め選挙に立候補するも落選。妻子を置いて伊豆の温泉に逃げ、そこで自堕落な生活を送り愛人まで作る。しかし後に鉄道会社を立ち上げ成功する。

 二人とも一度自分の人生を捨てている。捨てるというと一見逃げのようにも思えるがそうではない。二人に共通していることは自分の人生に妥協していないということだ。このままでも十分に生きていけるにもかかわらず、これではだめだと行動を起こす。計画性もなく後先考えもせずただ自分の生き方に疑問を持つ。それは不満と言うよりも漠然とした不安のようなものかもしれない。妥協しないために何をすればいいのか分からず、ただ自分の意志のまま動いてみる。それは考えるということでもある。自分の身の回りのこと、他人のこと、社会のこと、あらゆることを考えることで自分の今いる場所を確認することができる。自分の生き方を妥協しないというのは考えることから始まる気がする。人と違う生き方をする人間(人生に妥協しない人々)にはこの社会が、普通に暮らしている人間(人生に妥協した人々)とは違って見える。二人はその違いを怒りとして世の中にぶつけながら生き、そして死ぬ直前まで自分の人生はこれでよかったのかと考える。

 この物語は「電車道」というタイトルにあるように鉄道の歴史にも触れられている。鉄道がない土地に線路ができ駅ができるとはどういうことか。人が集まり、街ができ、お金が動き出す。そして景色が変わる。人も変わる。しかし二人は変わらない。変わらないものを持てる人間は強いが同時に辛いだろうとも思う。変化する世の中の価値観についていけず、絶えず怒りを抱えて生きるのは楽ではない。世間を理解できずに死んでいくのは辛いだろう。

 何もかもが目まぐるしく変化する今、自分を変えずに生きていくのは難しい。未来が簡単に予想できてしまう時代に、人生に妥協しない生き方は非効率かもしれないが、皆なんとなく予想できてしまう未来にびくびくしながら生きているようにも思える。人は今を生きている以上、必ず未来を持っている。ここで言う未来とはポジティブでもネガティブでもなく、ただの未来だ。その未来への道筋はいくつもある。効率、非効率とかではない。

 本書の中で印象に残った文章がある。
「その人に相応しい生き方というのは、どこかで待ち伏せている。」

 自分に相応しい生き方はいったいどこにあるのだろうか。二人の男のように自分がそうしたいと思う道を選び貫くことが大事だが、それには相当な覚悟がいる。

 人生に妥協しないということは、笑って死ぬことなんてできないということだ。

「人生を研ぎ澄ませろ」破獄を読んで

 もし何か罪を犯して刑務所に入ったとする。そのとき脱獄しようという気持ちになるだろうか。おそらくならないだろう。デジタルキー、監視カメラ、分厚いコンクリートの壁、現代の刑務所の警備がどのようなものなのかは知らないが、精一杯の努力を尽くしたとしてもその警備網を突破することは不可能に近い。

 

 だが、もし時代が昭和の戦前、戦中、戦後の時期ならどうか。今のようにテクノロジーも発達していない。ましてや国が戦中の混乱にある。もし「チャンス」と「やる気」があれば、脱獄するだろうか。この本はその脱獄を成功させた、しかも四回も成功させた男の実話をベースにした小説だ。

 

 この小説の特徴は、当時の時代背景や国内外の情勢が細かく描写され、それが刑務所の運営、看守の職務にどのような影響を与えたかについて書かれてある点だ。主人公である脱獄囚佐久間が4回も脱獄できたのも時代によるところが大きい。建物の脆弱性や徴兵制による刑務官の人手不足とモチベーションの低下など、戦争という出来事がそれを可能にしたといってもいいだろう。

 

 脱獄するチャンスが佐久間にはあった。では脱獄してから彼はどうするつもりだったのだろうか。本作の中で佐久間は脱獄の理由をこのように語っている。妻に会いたかった、網走刑務所の寒さに耐えられなかった、脱獄することで刑務官に仕返しがしたかったなど。

 

 佐久間は脱獄を繰り返すことで何を見たのだろうか。たとえ脱獄しても自由になるわけではない。この小説はノンフィクションのように書かれてあり、佐久間の内面についての描写は少ないように思う。佐久間が実際にどのような気持ちで脱獄に至ったのか、その内面の奥深くは想像するしかない。彼は逃げて何をしたかったのだろうか。彼は逃げた後のことは何も考えていなかったのだと思う。脱獄するための工夫や看守を翻弄することそのものに喜びを見いだしていたのではないだろうか。脱獄するチャンスが目の前にある、そしてそれを可能にするだけの能力が自分にはある、だから実行する。そして成功する。佐久間にとってこんなにも気持ちのいいことはなかっただろう。 
 

 しかしそんな佐久間も4回目の脱獄で逮捕投獄された後は逃げるそぶりを見せなくなる。「なぜ逃げないのか」と看守に問われた佐久間はこう答える。

 

「疲れました」

 

 本文にもあるが、4回もの脱獄と逃走を繰り返すには相当な知力と体力を要したはずだ。その間に佐久間の「人間としての力」は燃え尽きたのだろう。それに加えて看守の思いやりのある人柄と環境の整った刑務所に収監されたことで一定の満足を得られたことも「逃げる気力」を失った理由だろうと書かれてある。

 

 これまで意味のないただ快楽にしかすぎなかった脱獄に佐久間は明確な意味を見いだした。自分でもなぜ脱獄しているのか分からずに生きてきたのだと思う。そこに明確なゴールが見え、自分も満足している。佐久間にとって脱獄は必要のないものになったのだ。そう思うと佐久間の「疲れました」は悲観的には聞こえない。大きなことを成し遂げて満足しているときに発せられる声のように聞こえる。

 

 たった一言だがこの「疲れました」は重く自分の胸に響いた。人間としての力が果てるまで何かをやり通した佐久間をうらやましく思ったのだ。

 

 目の前にチャンスがあり、それをやるだけの能力が自分にはあるとわかったとき、どれだけの人間が動けるだろうか。動けないその理由は自分が現状に満足しているからではないだろうか。あるいは満足していると思い込んでいるからではないだろうか。物があふれ、価値観も多様になり、本当の孤独がなくなった現代では、必要のないものを欲しがり、必要のない情報で頭を悩ませ、必要のない人間関係に右往左往している。戦中のような思想的飢餓感はない。不平不満を言いながらもどこかで満足している、このままでいいと思っている。自分もその一人だろう。佐久間も脱獄する必要はなかった。ずっと刑務所で穏便に暮らすこともできた。にも関わらず脱獄というリスクを選んだ。長い年月はかかったが最後には「疲れました」と自分の人生に満足することができた。佐久間は人生を研ぎ澄ませたのだ。自分はどうだろうか。不必要な物がまとわりついた人生を満足とは言えないのではないか。自分の人生の本当の満足とは何か、考えてみようと思った。

四万円でやる気を買った

 十年ぶりのブログということでちょっとテンションが上がっていたが、最初のポスト以来まったく書いていない。書かなければと思いつつも、何かと理由をつけて書いていなかった。


 これはまずい。このままだと何も書かずに、毎日毎日満員電車で会社に向かい、無味乾燥な記事広告を書き続けていつのまにか歳をとり、何もかもが手遅れになってしまう。ちょっと大げさかもしれないが、本当にこれくらいの危機感を抱いている。にもかかわらず何も書いていないのだからどうしようもない。


 実は何も書いていないわけではないのだ。昼休憩にコンビニのイートインコーナーでメモ帳を広げ、読んだ本の感想をせっせと書いている。書いているといっても、思いついた言葉や文章を脈絡もなく書き連ねているだけで人に読ませられる文章にはなっていない。読み物としてまとめようと思うのだが思考があっちにいったりこっちにいったりしてうまくまとまってくれない。そして、次の日もまたイートインコーナーでメモ帳を開き、昨日と同じような内容を書いては読み直し、書いては読み直しを繰り返し時間が過ぎる。
 メモ帳がよくないのだと思った。思いついたことをすぐに書けるのは良いのだが、すぐに書けてしまうので頭に浮かんだことを余白に書き込んでしまい結局まとまらない。家に帰ってからパソコンを開くのだが、調べ物をしたり動画を見たり、文字を打つ気配がない。そしてゲームをしてしまい時間が過ぎ、いつの間にか深夜の2時。寝る。


 こんな調子で日々が過ぎた。まずい、これはいよいよまずい。何か文章を書く気になる、やる気になれる方法はないものだろうか。そこでとあるツールを思い出したのだ。ポメラだ。


 ポメラとテキストを入力するためだけのツールだ。見た目はコンパクトなノートパソコンだが、インターネットもできなければ、ゲームもできない。ただできるのは文字を打つことだけ。これこそ、今自分が必要としている道具ではないか。最初のポメラが発売されたのは何年前だろうか。当時「これはいい」と瞬間的に思ったのを覚えている。しかし、そのときは購入するまでにはいたらなかった。その理由が縦書きに対応していないから。なぜ当時それほど縦書きにこだわったのだろうか。たしかに小説は縦書きだ。しかし、日々の仕事で縦書きで文章を書くことはない。ましてや当時書いていた自分のブログも縦書きではなかった。しかしその頃はなぜか縦書きこそが自分が書くべき文章である、といったこだわりがあった。テキストを入力するためだけに開発されたポメラを今こそ購入すべきなのではないか。ポメラを買い、それを持ち歩き、とにかく時間があれば文章を打つ。頭にある言葉を人が読める文章にまとめる。そうすれば何か道が開けるはずだ。


 早速ネットでポメラを検索してみた。すると、自分が初めて見たポメラからだいぶ進化を遂げていた。幅26センチとそこそこの大きさはあるが、その分キーボードがしっかりとしている。ディスプレイも大きく見やすそうだ。しかしも縦書きに対応しているではないか。その最新のポメラを見て思った。「これだ、これを自分は買うべきだ。買わなければならない」いったいいくらするのか値段を見てみると、四万円。なるほど、なかなかの値段だ。マジか。ちょっと高くないか。しかし、もうこれ以上ぐだぐだしていられない。今こそが、ポメラを思い出した今こそが自分のチャンスなのだ。そう思うと四万円が安く思えてきた。四万円出してやる気を買ったと思えばいい。やる気なんてそうそう買えるものではない。それが四万円で手に入るのだ。次の日僕はヤマダ電機に行きポメラを購入した(四年間の長期保証付き)。そして、今、この文章をポメラで書いている。さっそく効果が現れたではないか。この調子だ。この調子でとにかく自分の頭の中にある言葉を外へ外へと出していこう。


 うん、やる気がわいてきた。四万円なんて安いもんだろ。

10年ぶりぐらいのブログ

およそ10年前、24,25歳ぐらいのころ、ブログを書いていた記憶がある。

結構真剣に書いていた。ブログを真剣に書くということがどういうことなのかわからないが、その当時は一つの記事を書くのに1時間、長いときには2時間ぐらいかけて内容を吟味し文章を整えていた。これが楽しかった。時間をかけて自分の頭の中にある考えをまとめて、納得のいく形でアウトプットすることに快感を覚えた。

 

で、なぜ、今、ブログを書こうと思ったのか。

 

いま私はライターという肩書きで仕事をしている。しかし、10年前のように文章を書くことに快感を覚えることはない。それは日々の仕事で書いている文章が自分の言葉ではないからだ。

私はライターといっても、何かテーマに沿って記事を書くライターではない。すべて広告記事だ。得意先の意向に沿って切り口を考え文章を書く。そこには文章を書いているという感覚はない。私は数式に近いと思っている。

 

商品×切り口×ターゲット=それっぽい記事広告

 

書きながらむなしくなり、書き終わっても何も感じることはない。そしてそれは自分の文章ではない。広告主の文章だ。毎日文章を書いているというのに、どんどん自分から文章が文字がなくなっていく感覚が怖い。

 

なんでもいい、自分の頭の中から出てくる言葉、というよりも頭の中からどんどん自分の言葉を出さなければならない、そしてそれを書かなければ将来とんでもないことになってしまうような気がした。

 

10年前のブログには、その日見た風景や出来事から感じたことや、空想の話などを書いていたような気がする。

 

このブログでは、主に読んだ本やプレイしたゲームや、趣味のサウナについてなど書こうと思う。うんちは語呂がよかったので入れた。

とくに本に関しては、読んだらそれで終わり、すぐに次の本へ、というサイクルで読んでいるのだが、読んだ本が自分にとってどういう存在なのか、ということをしっかりと考える時間が必要だと思った。感想文でもいい、自分なりの解説でもいい、読み終わった本を振り返る時間を作ろうと思った。

 

文字を、文章を書くことにいいかげん真面目に真剣に向き合わなければならない。