本とゲームとサウナとうんち

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「人生を研ぎ澄ませろ」破獄を読んで

 もし何か罪を犯して刑務所に入ったとする。そのとき脱獄しようという気持ちになるだろうか。おそらくならないだろう。デジタルキー、監視カメラ、分厚いコンクリートの壁、現代の刑務所の警備がどのようなものなのかは知らないが、精一杯の努力を尽くしたとしてもその警備網を突破することは不可能に近い。

 

 だが、もし時代が昭和の戦前、戦中、戦後の時期ならどうか。今のようにテクノロジーも発達していない。ましてや国が戦中の混乱にある。もし「チャンス」と「やる気」があれば、脱獄するだろうか。この本はその脱獄を成功させた、しかも四回も成功させた男の実話をベースにした小説だ。

 

 この小説の特徴は、当時の時代背景や国内外の情勢が細かく描写され、それが刑務所の運営、看守の職務にどのような影響を与えたかについて書かれてある点だ。主人公である脱獄囚佐久間が4回も脱獄できたのも時代によるところが大きい。建物の脆弱性や徴兵制による刑務官の人手不足とモチベーションの低下など、戦争という出来事がそれを可能にしたといってもいいだろう。

 

 脱獄するチャンスが佐久間にはあった。では脱獄してから彼はどうするつもりだったのだろうか。本作の中で佐久間は脱獄の理由をこのように語っている。妻に会いたかった、網走刑務所の寒さに耐えられなかった、脱獄することで刑務官に仕返しがしたかったなど。

 

 佐久間は脱獄を繰り返すことで何を見たのだろうか。たとえ脱獄しても自由になるわけではない。この小説はノンフィクションのように書かれてあり、佐久間の内面についての描写は少ないように思う。佐久間が実際にどのような気持ちで脱獄に至ったのか、その内面の奥深くは想像するしかない。彼は逃げて何をしたかったのだろうか。彼は逃げた後のことは何も考えていなかったのだと思う。脱獄するための工夫や看守を翻弄することそのものに喜びを見いだしていたのではないだろうか。脱獄するチャンスが目の前にある、そしてそれを可能にするだけの能力が自分にはある、だから実行する。そして成功する。佐久間にとってこんなにも気持ちのいいことはなかっただろう。 
 

 しかしそんな佐久間も4回目の脱獄で逮捕投獄された後は逃げるそぶりを見せなくなる。「なぜ逃げないのか」と看守に問われた佐久間はこう答える。

 

「疲れました」

 

 本文にもあるが、4回もの脱獄と逃走を繰り返すには相当な知力と体力を要したはずだ。その間に佐久間の「人間としての力」は燃え尽きたのだろう。それに加えて看守の思いやりのある人柄と環境の整った刑務所に収監されたことで一定の満足を得られたことも「逃げる気力」を失った理由だろうと書かれてある。

 

 これまで意味のないただ快楽にしかすぎなかった脱獄に佐久間は明確な意味を見いだした。自分でもなぜ脱獄しているのか分からずに生きてきたのだと思う。そこに明確なゴールが見え、自分も満足している。佐久間にとって脱獄は必要のないものになったのだ。そう思うと佐久間の「疲れました」は悲観的には聞こえない。大きなことを成し遂げて満足しているときに発せられる声のように聞こえる。

 

 たった一言だがこの「疲れました」は重く自分の胸に響いた。人間としての力が果てるまで何かをやり通した佐久間をうらやましく思ったのだ。

 

 目の前にチャンスがあり、それをやるだけの能力が自分にはあるとわかったとき、どれだけの人間が動けるだろうか。動けないその理由は自分が現状に満足しているからではないだろうか。あるいは満足していると思い込んでいるからではないだろうか。物があふれ、価値観も多様になり、本当の孤独がなくなった現代では、必要のないものを欲しがり、必要のない情報で頭を悩ませ、必要のない人間関係に右往左往している。戦中のような思想的飢餓感はない。不平不満を言いながらもどこかで満足している、このままでいいと思っている。自分もその一人だろう。佐久間も脱獄する必要はなかった。ずっと刑務所で穏便に暮らすこともできた。にも関わらず脱獄というリスクを選んだ。長い年月はかかったが最後には「疲れました」と自分の人生に満足することができた。佐久間は人生を研ぎ澄ませたのだ。自分はどうだろうか。不必要な物がまとわりついた人生を満足とは言えないのではないか。自分の人生の本当の満足とは何か、考えてみようと思った。