本とゲームとサウナとうんち

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太陽の塔に勝つためにー太陽の塔関連本二冊(平野暁臣)を読んでー

 僕の岡本太郎歴はそれほど長くはない。

 

 きっかけはNHKのドラマだった。

 

 2011年2月に岡本太郎生誕百周年を記念して作られた「太郎の塔」というドラマを見て一気に岡本太郎に取り憑かれた。ドラマを見る以前から岡本太郎のことは知っていた。太陽の塔のことも知っていた。「芸術は爆発だ」という言葉も知っていた。ただ、それだけだった。岡本太郎という芸術家が昔いた、という事実を知っているだけだった。太郎に関する知識はほぼゼロだった。ドラマでは彼がどのような環境で育ちどのようにして芸術家になり、そして、どのようにして太陽の塔を建てるに至ったのかを描いている。その中で強烈に印象に残ったのが太郎の「NON(ノン)」という言葉だった。

 

 自分の意に沿わないものに対して「NON」を突きつける。その姿勢が胸に重く響いた。砂の入った重い袋でぐいぐいと胸を押されるような感覚だった。少しでも力を抜くと「NON」に押し倒されそうになる。太郎の発した「NON」は強かった。そして太郎は大阪万博のテーマプロデューサーに就任したにも関わらず「人類の進歩と調和」というテーマに対しても「NON」を突きつける。

 

 僕が初めて太陽の塔を見たのは2012年か13年の1月だった。寒い日だった。千里中央駅からモノレールに乗る。「次は万博記念公園駅」というアナウンスが流れた時に見た車窓にそれは現れた。これまで太陽の塔を映像や写真で見たことはあったがそこにあった塔は自分がイメージしていたものよりもはるかに大きかった。木々に囲まれてズンッと屹立する塔は遠目からでも異質なオーラを感じることができた。

 

 モノレールを降りた僕は小走りになっていた。改札を出て左に折れると先ほどよりも大きくなった塔が見えた。公園まで歩く間、僕は常に塔を見ていた。というより塔に見張られているような気がして目を離すことができなかった。公園に入ると真正面に塔があった。ただ呆然と見つめるしかなかった。ゆっくりと歩き塔に近づいた。徐々にその姿が視界に収まりきらなくなる。首を上下に動かし全体をとらえようとした。近くで見る太陽の塔は汚れや黒いシミのようなものがあり、そしてとても孤独に見えた。1月の寒さのせいもあったかもしれない。孤独に見えたその塔を前にして僕は思った。

 

「勝てない。太陽の塔には勝てない」

 

 孤独になりながらもただ真正面を見て何かに対して「NON」を言い放つその両腕を広げた姿に圧倒的な敗北を感じた。なんでこんなにも強く立って強く生きていられるんだ。溢れそうになる涙を堪えてしばらく塔を睨んでいた。いつか太陽の塔に勝ちたい。それは今思えば僕の中では「太陽の塔になりたい」と同義だった。

 

 ベンチに腰掛けしばらく眺め、また来る、また会いに来てこの自分の気持ちが変わらずに昂ぶるか確かめるんだと強く思った。それから僕はほぼ毎年のように正月休みを利用して太陽の塔に会いにいくようになった。行くたびに生命の強さと同時に生きることの辛さのようなものを思い出させてくれるのだ。適当に生きてるんじゃないだろうな、楽して生きようとしてないだろうな、そう言われているような、どこを見ているのかわからないあのギョロッとした目で睨まれているような気がして背筋を正すのだ。

 

 しかし、ここ二、三年太陽の塔に会いに行っていなかった。この間僕は自分の生き方というものを見失っていた。あるいは放棄していたように思う。なんの目的も持たず何のために働いているのかもわからないそんな日々を過ごしていた。

 

 今年の5月、二年ぶりぐらいに太陽の塔に会いにいくことになった。嫁さんが大阪に行きたい、吉本新喜劇を生で見たい、と言ったのがきっかけだった。以前から僕が太陽の塔のファンであることを知っている嫁さんは当然のように太陽の塔も見たいと言った。これまで太陽の塔がどれほどすごいものなのか話して聞かせてきたが、それはすべて僕の主観だった。僕は太陽の塔の何を知っているのだろうか。そんな疑問が浮かんだ。そして何も答えられらなかった。僕はただ太陽の塔が好きだという自分に酔っていただけではないのか。太陽の塔を「ファッション」として捉え、太陽の塔が好きだと言うとなんとなくかっこいい、その程度の発想しかなかったのではないか。もちろん、初めて見た時の感動は嘘ではない。しかしそこから僕は一歩も進んでいなかった。もっと太陽の塔のことを知りたい、知らなければならない、そしてもっと近づきたいという想いから二冊の本を手に取った。

 

 二冊とも岡本太郎記念館館長である平野暁臣氏の本だ。一冊は平野氏が太陽の塔建設に関わった人々に取材をした「太陽の塔 岡本太郎と七人の男(サムライ)たち」。もう一冊が前出の本に新情報を追加した「太陽の塔 新発見!」という本だ。

 

 当たり前なのだが僕の知らないことだらけだった。

 

 なぜ岡本太郎はテーマプロデューサーに就任したのか。芸術界でも「きわもの」「危険人物」である太郎はなぜテーマプロデューサーという大役を任されたのか。プロデューサーを太郎に依頼したのは大屋根を設計した丹下健三だった。彼は太郎に何かを期待していたのだと思う。丹下は人類の進歩と調和、そして自身が作った大屋根、この2つに何かしらの物足りなさを感じていたのではないだろうか。何か足りないけれど何かわからない、岡本太郎に任せれば面白いことをやってくれるかもしれない。建築家としてではなくアーティストとしての直感あるいは万博で面白いことをしたいという好奇心のようなものだったのではないだろうか。

 

 そんな丹下の期待に応えるように太郎は太陽の塔を作った。大屋根を突き破り「人類の進歩と調和」というテーマに「NON」を突きつけるために作ったと思っていたが始まりはそこではなかった。そもそも太郎はいきなり太陽の塔を思いついた訳ではない。基本構想と呼ばれる太郎自らが書いた原稿用紙10枚ぐらいの文章から始まっている。絵ではなく言葉から始まったのだ。芸術家と聞くとパッと頭にひらめいたものをささっと描いて「これだ!」と直感と感性のみで作っているイメージがあるがそうではなかった。太郎はまず言葉によって展示の理念と構造を記したのだ。しかも書き出しの内容は塔のことでもなくテーマのことでもなく、観客の導線についてだった。万博に来た大勢の人たちを地上で滞留させないために展示スペースを地下、地上、空中と三層に分け、下から上へと人の流れを作ることで入り口付近の混雑を避けようというのだ。地下から地上、そして空中にある大屋根への導線を作るという発想がまずあった。つまり太陽の塔は言葉と機能から生まれたとても論理的なものなのだ。

 

 これだけでも十分驚きなのだが、さらに驚きなのが、太郎がまず発案したのが生命の樹だったということ。生命の樹と言えば太陽の塔の内部にあるあの樹だ。てっきり太陽の塔ができ、その後生命の樹を発想したものだとばかり思っていたが実は太郎が真っ先に構想したのが生命の樹だったのだ。原生生物から人間までの進化を支えてきた生命のエネルギーを表現したこの生命の樹は、のちに太陽の塔内に入るわけだが、太郎はこれを塔の「血流」、太陽の塔の「動脈」だと思っていたという。太郎は太陽の塔を「いきもの」として構想したのだ。彫刻ではなく、生命体として。僕が初めて太陽の塔を見たときに感じた異質なオーラやにらみつけられるような感覚はきっと太陽の塔が生きていたからなのだろう。

 

 しかし、このように塔の役割が観客を大屋根まで運ぶものだとしたらわざわざ大屋根を突き破る必要はなかったのではないか。しかし太郎は始めから大屋根を打ち破るつもりでいた。基本構想の最後に生命の樹は巨大な屋根を突き抜ける、と書いているのだ。太郎の中にむらむらと湧き起こった大屋根を打ち破るという衝動。これを僕は人類の進歩と調和というテーマに対する挑戦だと思っていた。しかし太郎はこう言っている。

 

「この世界一の大屋根を生かしてやろう」

 

 なぜ大屋根を打ち破ることがそれを生かすことになるのか。平野氏はこう書いている。

 

「それが岡本芸術の神髄だから」

 

 わかるわからないではない「そう」なのだ。 太郎は大屋根と太陽の塔を対峙させることで芸術に引き上げようとしたという。そこで僕ははっとした。「NON」だ。僕はこれまで「NON」をただ相手に対峙し「NON」を突きつけ闘う行為ばかりだと思っていた。そうではないのだ。「NON」は相手の存在をくっきりと浮かび上がらせ、相手と自分を対等のフィールドへと持って行きしっかりと向き合うための言葉であり行為なのだ。それにより新たな可能性を探る。太郎がテーマならびに大屋根に「NON」を突きつけたのは万博をただの国家事業で終わらせるのではなく、対峙させることで大屋根と太陽の塔を新しい芸術へと昇華させるためだったのだ。いくら論理的に言葉を用いようとも機能面を重視しようともやはり太郎の芸術家としての衝動は抑えられなかった。もしここで太郎がこの衝動を抑えていたら、あれだけのものは誕生していなかった。

 

 太陽の塔はあの場所で大屋根に対峙し大屋根の可能性を引き出すために建てられた。あそこでなければだめだった。そして対峙する相手は大屋根でなければだめだったのだ。僕が太陽の塔に感じた孤独もこれで納得がいく。大屋根がなくなった今、対峙する相手のいない太陽の塔は孤独だ。自分をより高い所へと押し上げてくれる相手、「NON」を突きつけるに値する相手が現れるのを今も待っている。

 

 太陽の塔は技術的にどのようにして作られたのか。まず驚いたのが、設計を担当したのが二十代の若者だったことだ。さらに本書の中で平野氏が驚いていたのが太陽の塔幾何学的な図形の集積でできているということだった。なぜこれが驚きなのかピンとこなかったのだが、読み進めていくうちにその驚きの理由が分かった。

 

 太陽の塔は太郎が作った100分の1の石膏原型を元に作られたのだが、太郎の手によって作られた有機的な形を建築物としてそのまま大きく作ることはできないのだという。建築に関わる人々が共有できる図面に落とし込むためには有機的な図形を数値化、つまり幾何学的な図形に変換する必要がある。これが何を意味しているのか。つまり、今立っている太陽の塔は太郎が作った有機的なそれとまったく同じというわけではなく、太郎が作った原型に限りなく近い「幾何学的な形」なのだ。太郎の手が生み出した曲線や反りや左右の非対称がそのまま再現されているわけではないのだ(太陽の塔は完全なる左右対称だという)。たしかにこれは驚きだ。担当者は、作品の創造に参加している意識はなく、完全に建築物を作っている感覚だったという。今の時代なら高性能CPUや3Dスキャンなどの技術があるので簡単に再現できるのかもしれないが、当時の設計図は手書きだったというからまた驚きだ。

 

 そして読んでいて鳥肌がたったのが、大屋根と太陽の塔の腕との連結部分についてだ。太陽の塔の腕は大屋根とつながっているのだが、つなぎ目に段差ができないように大屋根の自重によるたわみと太陽の塔の腕の自重によるたわみを計算して段差がないようにしたという。当時の解析技術では困難なシミュレーションを「おそらくの世界」と担当者は言っているが、成し遂げてしまう技術に驚いた。そして表面の加工や防水、黄金の顔の再現などについては当時の最先端の技術、別の言い方をすると当時主流ではなかった技術が実験的に使われたという。なぜ実験の場として活用されたのか。それは太陽の塔が閉幕半年後に取り壊されることが決まっていたからだ。これは塔に限った話ではなく、万博の規則でパビリオンなどは閉幕後半年で取り壊すことが定められているのだ。太陽の塔が作られている当時も取り壊される運命にあった。しかし、誰一人壊すつもりで作っている人はいなかった。皆残すつもりで作っていた。なぜ残すつもりだったのか言葉で説明できることではないと思う。強いて言うなら「ベラボーなもの」を作ると宣言した太郎の情熱あるいは衝動が皆を動かすモチベーションになったのだろう。

 

 

 設計担当者が20代だっただけでなく万博のコンテンツづくりの中枢を担っていたのも30代という若者たちだった。なぜ若者が起用されたのか。それは初めての万博を成功させるという命題を前に「若い才能に賭ける」というヴィジョンが関係者の間で共有されていたからだろうと平野氏は言う。そして意思決定者がリスクをとって若い情熱、異色の才能に賭けたと。今なら考えられないことだ。

 

 もし今万博を開催するとしたら国はまず代理店に依頼する、代理店はスポンサーを集める。国は代理店に丸投げしふんぞり返り、代理店はスポンサーに忖度する。そしてスポンサーは「ビジネスとして」成功することを第一に考える。こんな状況では若い才能に賭けるという発想は生まれない。当時は役人と作り手の距離が近く、役人も代理店任せではなく自分ごととして事業に取り組んでいたのだろう。

 

 これらの若いクリエイターたちを太郎はさぞかし強いリーダーシップで導いたのだろうと思いきやそうではなかったようだ。太郎はただプロジェクトへの志を語っただけでそれ以外は何も口出ししなかったという。ただ自分が言いたいことは言い指示は具体的に出した。太郎は若者たちと同じ目線でディスカッションし同じ目線で太陽の塔に向かっていた。それにより若者たちは太郎の手先として動いているという感覚ではなく、自分たちが作っているというモチベーションを持てたのだ。ベラボーなものを作っている感覚。面白いことになるぞ、面白いことをやってやるぞという情熱。ビジネスや将来のキャリアなど考えずに万博と格闘した若者たち。未来が見えない時代だからこそできたと思う。当時は未来が見えなかった。だから夢があった。今は未来が見えすぎている。夢という言葉は理想へとすり替わり情熱や努力ではなく即物的な感覚へと変わった。未来と現在と現実がイコールでつながっている今、後先考えずに前だけ今だけを見て突っ走ることはなかなかできない。もちろん気持ち一つでどうにでもなるのだが、そのリスクをとる度胸がない。そんな今の若者たちを引っ張ってくれる大人が必要だ。「おい、ベラボーなものをつくるぞ」と言ってくれるちょっと危険な大人が必要だ。

 

 しかしそんな危険な大人がいたとして現代でベラボーなものはつくれるだろうか。たとえ太郎が今生きていたとしても苦戦するだろう。1970年の日本と今の日本とではあまりにも感覚が違いすぎる。様々な価値観が世に溢れ、批評、批判で隙間が埋められる。ベラボーが入り込む余白がない。

 

 裕福になった日本は代わりに情熱を失った。現代人は新しい日本などどこにもないことを知っている。当時は新しい日本を皆探していた。新しい日本があることを信じていた。たしかに新しい日本はあった。しかしそれは合理性と常識が支配する世界だった。何をするにも理由がついて回る。よくわからないけどやろう、なんてことが通用しない。わからないもの、理解できないものに対して攻撃あるいは黙殺する、それが現代だ。皆頭がよくなりすぎた。いや、頭がいいフリをしすぎだ。そして人に興味を持たなすぎだ。

 

 現代人は太陽の塔には勝てないのか。太陽の塔に「NON」を突きつけそれと対峙することはできないのだろうか。

 

 本書の中で設計担当者がこんなことを言っていた。

「これからも太陽の塔が残っていくのであれば、本来のように対決の世界にもう一度戻って欲しい。太陽の塔と対峙するものを次の世代につくってほしい。太陽の塔なんかに負けないぞ、というようなものをね」

 

 70年以降おそらく太陽の塔は様々な相手と戦ってきた。しかしそれは大屋根のように姿形が見えるものではなく目に見えないものばかりだった。とくに今は闘う相手が見えにくい。相手が見えないのであればどこに誰に「NON」を突きつければいいのかわからない。たとえ突きつけたとしても相手が浮かび上がってこない。

 

 万博後に学芸員が太郎に聞いた。「大屋根を失った太陽の塔はこれから何と向き合うのか」と。

 太郎はこう答えた。

「宇宙だ」

 太郎自身、太陽の塔と闘う相手が今後現れないことをわかっていたのだろう。そして太陽の塔に睨まれていると僕が感じたのは勘違いだった。太陽の塔は僕なんか見ていなかった。僕たちは宇宙に向けられた太陽の塔の目を再びこちらへと向けさせなければならない。「NON」を突きつけるにふさわしい相手にならなければならない。太陽の塔を保存するかどうか議論になった時に署名活動が行われたという。太陽の塔はそれくらい市民に愛されていたということだ。しかしやはり愛するだけでは太陽の塔の意味がない。闘わなければならない。

 

 初めて太陽の塔を見たときに勝てないと思ったのは太郎だけでなく太陽の塔に関わった全ての人たちの情熱や気概のようなものが襲ってきたからだ。当時の人たちのその気持ちに負けないように強く生きなければと改めて思った。