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人の背景になることー夕子ちゃんの近道(長嶋有)を読んでー

 小説ってなんだろう。どんな小説を読みたいだろう。もし自分が小説を書くとしたら何を書きたいだろう。そんなことを考えていた。答えがあるわけではないが、それを見つけたいと思っていた。そして僕が出した答えは「生き方」だった。小説は「生き方」を描いたものではないだろうか。「生き方」を描いた小説が僕は好きなのではないか。「生き方」という言葉も漠然としているが僕の中ではしっくりくる言葉だった。

 

 長島有の作品を久しぶりに読んだ。読み終えてこういう小説を僕は書きたいのではないだろうかとまず思った。つまりこの「夕子ちゃんの近道」は人の生き方を描いた作品だと僕は思ったのだ。

 

 「夕子ちゃんの近道」は表題作を含む全七作の連作短編集だ。骨董品屋「フラココ屋」の二階に居候する主人公「僕」の目線で「僕」自身とその周辺の人々の生き方が語られる。フラココ屋の店長、近所に住む瑞枝さん、フラココ屋の物件の大家の八木さん、八木さんの孫娘の朝子さんと夕子ちゃん、フランス人のフランソワーズ、皆濃い人たちばかりだ。濃いというのはキャラのことではない。生き方が濃いのだ。

 

 生き方が濃いといってもこの作品は何か大きな出来事が起こるわけではない。瑞枝さんが原付の免許を取ったり、夕子ちゃんから近道を教えてもらったり、店長の前カノらしいフランソワーズに出会ったり、芸大に通う朝子さんが卒業制作で箱を作ったり。夕子ちゃんが、彼女が通う定時制高校の教師の子を妊娠するという出来事は起こるが、それを物語的に描写することはない。徹底して登場人物の「生き方」に重きを置いて語られる。

 

 主人公の「僕」は謎多き人物だ。物語の中で名前や年齢が明かされることはない(年齢については、それほど若くはない、青年ではない、といった描写があるがはっきりとした年齢は明かされない)。過去に何かあったことは分かるがそれが明確に語られることはなく、飄々と今を生きている。そのせいか瑞枝さんから「背景みたいな透明な人間だね」と表される。褒め言葉なのか、そうではないのか一瞬悩むがこれは褒め言葉だろうと僕は思う。「僕」という背景があるからこそ、ほかの登場人物たちの「生き方」がくっきりと浮かび上がるのだ。登場人物たちは「僕」を背景にして自分の「生き方」を見つけていく。

 

 「僕」がみんなの「背景」になる理由はおそらく二つあると思う。ひとつは「孤独」だ。

 

 孤独と言ってもストレートな孤独ではなく、そこからにじみ出る「優しさ」のようなものだろうか。「優しさ」といっても手を差し伸べる優しさではなく、何もせずにただ見守り受け入れる優しさ、人の寂しさに寄り添える優しさだ。

 

 瑞枝さんが「僕」のために深夜に石油ストーブを持ってきてくれた時、「僕」は感動し瑞枝さんを抱きしめたくなる。「僕」は何に感動したのかわからないと言っているが、おそらく瑞枝さんの孤独を思ってのことだと思う。ほかにも直接的ではないが、「僕」の優しさを感じられる「僕」独特の感覚がいくつかある。

 

 年少の知り合いにため口を使ってしまう自分に対して「オレに敬語を使わせろよ」と思う感覚。

 

 長いスカートを見ると寂しい気持ちになりなぜか別れを思ってしまう感覚。

 

 孤独でいるからこそ「僕」には周りの人たちがはっきりと見える。しかしそこから湧き出る感情は嫉妬や妬みではなく「僕」独特の優しさなのだ。その優しさはなかなか周りの人たちには伝わっていないけれど、知らず知らずのうちに感じ取っているとは思う。自分の生活に安心できる背景がある。だからこそ、周りの人たちは活き活きと自分の「生」を生きられるのだ。

 

 もうひとつは「僕」の「時間」の感覚が希薄なことだ。止まっているものは背景になる。しかし、生きるとは、ある意味時間との闘いだ。過去を背負い、未来に期待、あるいは悲観して生きていくものだ。それが「僕」にはあまりない。多少過去に背負っているものがあるが、「もう」という感慨を抱いたことがないのだ。「僕」はおそらく時間を忘れたのだと思う。それはつまり「生き方」を忘れたとも言える。

 

 時間を忘れて生きられたらどんなに楽しいだろう。年齢による制限もなく、いつまでも可能性を持ったまま生きられたら。そんな「僕」の考えを三十五歳になる瑞枝さんが「それは錯覚だよ」と、「ヒトはナマモノ」だと自分に言い聞かせるように言う。ちょくちょく登場する瑞枝さんは「僕」と似ているようで似ていない。「僕」は瑞枝さんのことを「思考停止の友」と思っているが、美大生の朝子さんに影響されて人生を前に進め始める。瑞枝さんだけでなく周りの人たちも物語が進むにつれて時間と供に変わり始める。

 人が変わるとはどういうことか、それは背景が変わるということだ。今まで背景だった「僕」はそれを敏感に感じ取る。

 

「めいめいが勝手に、めいめいの勝手を生きている」 

 

 人の生き方を「僕」はそう表する。

 

 背景としての役割を終えた僕はみんなの前から姿を消すことにするのだが、それはできなかった。みんなに黙って出て行こうとするところを瑞枝さんに偶然見られたからだ。このときの感覚を「僕」はうまく説明できないと言っているがおそらく「僕」にとってまわりのみんなが背景になっていたのだと思う。時間の感慨がない、思考停止していると自分自身で思っていた「僕」だったが、実際は周りの人たちを背景にして少しずつ変わっていたのだ。そして周りの人に与えたように、「僕」も周りの人たちから知らず知らずのうちに優しさをもらっていたのだ。

 

 最後の章で「僕」は改めて生き方をこう表現する。

 

「旅」

 

 「僕」にとって生き方とは旅なのだ。旅には時間の概念がしっかりとある、そして停滞せずに常に動いている。みんなと供に過ごした時間は確実に過ぎ、確実に「僕」を変えた。「僕」の時間は動き出し、「僕」は「生き方」を思い出す。

 

 この小説を読み始めたときは自分が書きたい小説だと思ったが、読み終わる頃には自分も「僕」のような生き方をしてみたいと思うようになっていた。誰かの背景になり、その人の生き方をしっかりと浮かび上がらせ、そして誰かに背景になってもらい、自分の生き方を浮かび上がらせる。旅のように、時間と場所を自由に行き来しながら生きる。

 

 これまでの自分の生き方を振り返ってみると、旅というより瞬間瞬間で生きてきたように思う。この物語で言えば前半部分の時間の概念を持たない「僕」のように。そして気づけば三十六歳になっている。「ヒトはナマモノ」という瑞枝さんの言葉が重く響く。

 

 僕は誰かの背景になれているだろうか。愛する人、親兄弟、親友の背景になれているだろうか。そしてこれから旅するように生きられるだろうか。停滞せずに思考停止せずに。