本とゲームとサウナとうんち

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時の流れとは何か

時の流れとは何かを考えた。なぜこんなことを考えたのか。哲学でもなんでもなく、自分のブログの最終更新日を見たのがきっかけだった。

最終更新日は2019年の8月4日。およそ7ヶ月も書いていない。7ヶ月も僕は何をしていたのだろうか。思い出そうとするけれど、思い出せない。

時の流れとは何か。簡単に言ってしまうと、数字だ。数字の変化。つまり時間の変化(前進)が時の流れだ。

僕たちは毎日時計に操られて生きている。それは時に操られて生きているとも言える。

さらに時の流れについて考えるきっかけになったのが僕の年齢だ。今年39歳になる僕は、今回で何回目かわからない転職をした。もう39か、と時の流れを考えた。また数字だ。時間も年齢も数字だ。

数字でしか時は感じられないものなのだろうか。そこで数字以外の時を考えてみた。思い付いたのが動きだ。何かが動くということは時が流れていると言える。秒針が今ある場所から次の場所へ動く。そう考えると時計も数字ではなく動きで捉えることが出来そうだ。今こうして文字を打っていることも動きだ。指が動いている。つまり時が流れている。

では、数字でもなく動きでもなく、時を感じる方法はあるだろうか。じっと何もせず止まっていても時は動いている。時は、動きがなくても流れている。とはいえ、それを感じることはできない。唯一感じられるとすれば鼓動だろう。心臓の鼓動は何もせずにいてもドクンドクンと時を刻んでいる。体中に血液を送っている。

流れだ。血液の流れは、時の流れ。つまり時は心臓が作りだし、血液がその流れを作っている。そして細胞分裂という動きを生む。だから、僕たちはじっとしていても心臓が作り出す時の流れに乗り年老いていくのだろう。

では石に時の流れはあるのだろうか。花を咲かせ葉を散らす木や草には時の流れがあるように思う。地面に転がっている石はどのように時を感じているのだろうか。風化という現象で時を感じているのだろうか。こう考えると、時の流れのないものというものは、ないのかもしれない。

できれば時の流れなど感じずに生きたい。しかし、それは許されない。心臓だけのせいではない。時を感じざるを得ない最大の理由、それが地球の自転だ。

夜眠ると朝が来てしまう。夜という時、朝という時。この二つのせいで、時に追われてしまうのだ。この反復が、時を嫌なものにしている気がしてならない。

時を表す反復という行為もなかなかにしんどい。しかし、心臓も反復だ。地球の自転もある種の反復だ。

時とは反復なのか。ある一方方向に動いているとばかり思っていたけれど、実は、同じところをぐるぐると回る、地球のように、血液のように、ただただ同じことを繰り返すのが時だとしたら、少し悲しい。

だから人は考えるようになったのかもしれない。どんなに時が反復であったとしても、人の頭の中は反復しない。心臓が鼓動を打つたびに考えはころころと変わる。これこそが時の意義なのかもしれない。

明日の自分は今日の自分とは違う。手垢の付いた表現だが、こう思いながら生きていかないと時の反復に飲み込まれてしまうのだ。

 

そして書いていて気づいたことがある。僕が嫌っているのは時ではなく時間なのだと。時は金なりという言葉があるが、この「時」は「時間」の意味で使われている。

時間は確かに操れない。しかし、時は考え方次第でいかようにも操れるのではないか。

 

時を操り、時の反復から抜け出さなければ本当の人生はやってこないのかもしれない。

 

仕事も時間なんだよね。だからしんどいんだろうねえ。